教室の中と外、50センチ。
最初は、何が起こっているのか理解できなかった。
「……受験科目、なに?」
「国数英と、自己PR文だけど……」
いつも通り図書室で勉強していたら突然誰かが隣に立って、見上げたら越前くんがいたのだ。どんな反応したらいいのか分からない中で越前くんだけはいつも通りクールな様子で質問をしてきて、訳のわからないまま答えると、返ってきたのは思ってもみないような提案だった。
「英語、また分からない事があったら教えてあげても良い。数学も角度は無理だけど、関数なら割と得意」
「……自己PR文、英語で書かないといけないの……だから、助かる」
やっとの事で声を絞り出して、それだけ答える。すると越前くんは酷く安心したような顔でゆっくりひとつ大きな呼吸をして、それから〝笑う〟というよりかはふっと気を緩めるような、そんな表情をした。
「……それだけ。じゃあ俺、部活戻るから」
「あ、う、うん。頑張って、ね」
私の心が追いつかない内に越前くんはくるりと踵を返し、図書室から出て行ってしまう。それからほとんど入れ違いで委員会を終えた友人が目の前に現れるまで、私の心は置いてけぼりを食らったままだった。
「なまえお待たせ〜って、どうしたの!?」
「え、何が?」
「泣いてる!」
「え、うそ、」
信じられない気持ちで目の下を触る。頰は確かに濡れていて、そこでようやく鼻の奥がつーんと痛くなった。見る見る内に涙で視界がボロボロになる。
「……良かった……良かったよぉ……!」
心配そうに寄り添う友人に思わずすがりつき、私はしばらく声を押し殺して泣いてしまった。
少し経って涙も収まった後、私と友人は図書室を出て人通りの少ない階段の陰に座り込んでいた。私が突然泣き始めた理由を友人が放っておく訳もなく、だからといって図書室にいたままおしゃべりなんてしていたらうるさいと注意されてしまうだろうから。
「そんな事があったんだね」
「うん、いきなりごめんね」
私が話した内容は決して長いものではなく、越前くんが突然来て喋りかけてくれた事、ただそれだけだった。けれど彼女にはこの頃私が感じていた不安を打ち明けていたから、たったそれだけの話にも彼女は胸をなでおろしてくれる。
「ううん、むしろ安心した。なまえと越前くんが上手くいかなかったら私の所為だって思ってたから……」
「上手くも何も、私が勝手に片思いしてるだけなんだから何も起こらないよ」
始まりは修学旅行での事。ガラス細工のお店で越前くんがとても嬉しそうに猫の箸置きを見ていたから、彼が店を出た後につい買ってしまったのだ。ストラップのお礼なんて自分に言い訳していたけれど、本当は渡す勇気なんてこれっぽっちもなかった。
けれど越前くんと話していた事、そのすぐ後に箸置きを買っていた事を目の前の彼女に見られていて、ホテルに戻ってすぐに事情を問い詰められた。気圧されて話したら「今すぐ渡しなよ!」なんて言われて。それから携帯電話を取られて、越前くんへのメッセージを書かれるまではあっという間だった。
「それにあのメッセージを送ったのは、結局私なんだもん」
けれど彼女は結局、送信ボタンを押さずに私に電話を返してくれた。「後はなまえが決めるべき」と言われて、送信のふた文字に触れたのは私自身なのだ。
ホテルのロビーで待ち合わせして(今思うと、なんであんなに大胆なことができたんだろう!?)喜んでくれるかな、と実は少しだけ期待して渡したら、越前くんはむしろ突き放されたような寂しそうな顔をしていた。あの場では気のせいかと思ったんだけど、その後全然話す機会がなくて、メールのやりとりもなくて、今日までテストがあったからこうして図書館からこっそり姿を見る事すらなかった。
今までだって必要事項がないと連絡なんてして来なかったはずで、クラスが違うんだし会えないなんて当たり前の事だったのに。きっとあの時見た越前くんの表情は気のせいだ、避けられてなんていないと自分に言い聞かせれば聞かせるほど、胸は潰れそうなくらい苦しかった。
でも、それも今日でおしまい。
自分でもすごく単純だなって思うけれど、越前くんが図書室まで来てお話ししてくれた。また英語や、今度は数学まで教えてくれるって言ってくれた。それだけで私は救われたような気分になって、うそみたいに心が軽い。
「それじゃー心配事もなくなった事だし、そろそろ帰ろっか!」
彼女が立ち上がり、お尻の埃を軽く叩いて落とす。私も真似して、ふたりして下駄箱に向かった。
*****
青学の図書室で友人の委員会が終わるまで勉強して、駅前まで一緒に下校したら区立図書館でまた勉強、それから家に帰って、夕飯を食べてまた勉強――氷帝を受験すると決めてから、私の放課後はだいたいこんな感じだ。
〝ピロン〟
携帯電話が鳴ったのは夜の勉強の更に後――お風呂も終わって、眠くなるまで参考書を読もうと思っていた時だった。
画面を確認すると差出人には越前リョーマの文字。ドキドキしながらメッセージを開けば、画像と、ひとことだけの短い文章が現れる。
『土産サンキュ、やっぱそっくり』
添付されていたのは前にも写真を送ってくれた越前くんの……確か、カルピンだっけ? が私のあげた箸置きに鼻を近付けている画像だった。越前くんの言う通り猫ちゃんと箸置きは本当にそっくりで、偶然とは言え少し自分が誇らしい。
『越前くんにそっくりだと思って買った箸置きなの。ペットは飼い主に似るんだね!』
文字を打って、送信ボタンに触れようとしたところでふと思い留まった。……ちょっと怖かったから。
越前くんに避けられていると思った時、咄嗟にバチが当たったのかと思ってしまった。
越前くんともっと仲良くなりたいなんて思ったから。みんなの王子様なのに、馴れ馴れしくもっと近づきたいなんて、思ってしまったから。
「……嫌われたく、ないな」
神様がいるなら、お願い。
好かれなくても良い。もう仲良くなりたいなんて出すぎた事言わないから。
越前くんに嫌われたくない、です。
少し悩んでから、私はメッセージを消して『どういたしまして。気に入ってくれて嬉しいな』と打ち直してから送信したのだった。
*****
10月も半ばを過ぎて、文化祭準備の忙しい雰囲気が少しずつ学校を満たし始めたある日の事。
「なあ、みょうじ」
滅多に話した事のないクラスメイトの男の子に突然声をかけられ、私は少し面食らいながらも読んでいた本から顔を上げた。
「どうしたの、みょうじくん?」
ちょっとくすぐったい気持ちになりながら相手の名前を呼ぶ。みょうじの姓は別に珍しくないから時々同じ苗字の人を見かけるけれど、こうして同じクラスになるのは滅多にない事であまり慣れない。
「越前が呼んでる」
戸惑うみょうじくんの指がさす方を見ると、教室の扉にもたれかかるようにして越前くんがこちらを伺っていた。突然の事に思わず胸が高鳴る。どうしよ、心の準備ができてないや。なんて思っていたら、みょうじくんは未だ少し怪訝な顔で続けた。
「みょうじってテニス部だっけ? 越前と話すとこ初めて見る」
「越前くんとは委員会が一緒なの」
そこまで話したところでみょうじくんは納得したようだった。お礼を言うと「気にすんなって」とからからと笑う。彼はとても明るいクラスの人気者で、同じ苗字なのにここまで私と性格が違うんだなあと感心してしまった。
何はともあれ今は越前くんだ。私は読みかけの本を置いて席を立つ。
「越前くん、どうかした?」
「エプロン持ってない? 今日調理実習なの忘れてた」
扉の前に着くなり、越前くんは困った様子で口を開いた。ちょうど6組も朝から調理実習だったので、「ちょっと待ってて」と一声かけて自分の席に戻る。そしてカバンから黒無地のエプロンを取り出して、越前くんの所まで持って行った。
家にはお気に入りのやつとこれと2つあったんだけど、こっちを持って来て良かった。だってあっちじゃあ越前くんがつけるには可愛すぎるもの。
「サンキュ」
「どういたしまして」
越前くんがエプロンを受け取ると同時に予鈴のチャイムが鳴る。珍しく分かりやすい慌てた様子で彼は去って行った。
そして丁度1時間後――
「みょうじー、越前が呼んでるー!」
3時間目が終わってすぐ、再びみょうじくんに呼ばれて私はもう一度教室の扉の前で越前くんと対峙する事になったのだった。
短いお礼と共にエプロンを返してくれて、なのに越前くんは怪訝な顔だ。調理実習で何かあったのかな? それともエプロン汚れてた? え、もしかして汗臭かったかな!?
「エ、エプロン汚れたりとか、臭ったりとか、した……?」
「いや、綺麗だった。俺も汚してない、と思う」
臭ったりって何それ、と越前くんが揶揄うように笑ったから、また余計な事を言ってしまったんだと顔が熱くなるのを感じた。そんな私をよそに越前くんは少し考え込んでから再び口を開く。
「みょうじってさ、クラスに2人いるよね」
「え?……あ、みょうじくんの事?」
「さっき『みょうじ呼んで』って言ったら違うやつが来たから、びっくりした」
今だってそうだったし、流石に2回目はあっちのみょうじも苦笑してたけど。
なんて越前くんが続けたので、つられて私も苦笑する。だから授業の前も、今も、私を呼んだのがみょうじくんだったんだ。
「越前くんとみょうじくんって接点ないもんね」
みょうじくんはサッカー部だ。でも男子同士だし、人気者だから私より先に呼ばれたんだと思う。越前くんがこの教室まで来て私を呼ぶ事なんて今までなかったから、不思議ではない。
「紛らわしいから、こっちのみょうじの事は名前で呼んでいい?」
越前くんが提案してきた事は、このままこの話題が世間話で終わると思っていた私を驚かせるには十分すぎるほどだった。
「え、名前、って」
「みょうじの名前ってなまえだよね? アメリカでは人を苗字で呼ぶ事なんてなかったから、名前の方が俺も呼びやすいし」
なまえ
短い、世界で一番聞き慣れた単語なのに、越前くんの声ってだけでドキドキして、びっくりするくらい輝いて聞こえる。頭が真っ白で、何かを言わなきゃと思って、でも変なことはもう口走りたくなくて、そうしたら唇も、のども、ちっとも言う事を聞いてくれなかった。
「ダメ?」
「だ、めじゃ、ない」
「そ、良かった。……じゃ、エプロンサンキューね、なまえ」
時折見せてくれる目尻の下がった優しい微笑みを見せて、越前くんは自分の教室に帰っていった。私だけ教室の扉の側から動けないまま、頭の中で越前くんの「サンキューね、なまえ」がずっとリフレインしている。
越前くん、私、分かんないよ。
近付けたと思ったら遠ざかって、だからもう嫌われたくないと思っていたのに、私の不安なんてお構いなしに、また少し近付いて。ずっと越前くんに振り回されてる。
このままの私で、良いの? 嫌わないでいてくれるかな。
不安と期待と、さっきのドキドキが頭の中で混ざってぐちゃぐちゃになる。思わず返してもらったエプロンをぎゅーっと強く抱きしめて、そしてこのエプロンもさっきまで越前くんが着てたんだと思い出したら、なんとなく、エプロンに鼻を押し付けて息を吸い込んでしまった。当然自分の家の匂いしかしなくて、急に死ぬほど恥ずかしくなる。
こ、これじゃあ私、変態じゃない! と自己嫌悪しつつ、私は自分の机に戻ったのだった。