​Admitted, but still unknown。


 修学旅行から帰ってきて幾日が経ち、学校はピリピリとした雰囲気に包まれていた。一昨日から続く中間テストが佳境を迎えているのだ。
 青学は一度入ってしまえば外部受験をしない限り大学までエスカレーター式だから、3年生になっても公立校の生徒に比べれば気楽な空気に包まれている。それでもテスト期間中は部活動が停止になるし、勉強しないと居心地が悪いしで、リョーマにとって楽しい時期ではなかった。
 けれどそれもようやく終わる……試験期間は今日が最終日で、ついでに言えば残りはあと1教科だった。昼休みも終わって最後のひと頑張りの前に、リョーマはトイレに向かう。

「あー! リョーマくん!」

 そして、トイレから出てきたところで批難じみた声で名前を呼ばれた。怪訝な顔でそちらを見ると、カチローが小走りで目の前までやってくる。出会ってから3年間で額ひとつ分リョーマの方が大きくなったにも関わらず、カチローに睨み上げられるとたじろいでしまう。副部長になってから彼は強かさを随分身につけていた。

「……なに?」
「何じゃないよ、もう!」

 メッセージ見たなら返してよ、もう3日待ったよ!
 そう続けられてしばらく考えてから、そういえば試験が始まったばかりの頃に携帯電話に何か来ていたと思い出した。けれど内容までは思い出せない。

「なんだったっけ?」
「今日から部活が再開するから、新部長たちとのミーティングをするって話だよ!」
「あー、それね」

 3年生である彼らは8月の全国大会で名目上は引退していて、部長などの役職は2年に任せている。けれどここでもまたエスカレーター式の進学を理由に、実際は春休みまで役職付きの後輩を指導する立場でまだ部活に顔を出していた。
 ミーティングについては問題ないと答えると、カチローはようやく溜飲を下げる。そして疲れを含んだため息をひとつ吐いた。

「リョーマくんったらいつも返信してくれないんだもの、これじゃあ携帯電話の意味がないよ」
「俺って返信早い方だと思ってたんだけど、今回はたまたまじゃない?」
「いつもだよう!」

 ほら、とカチローが自身の電話を差し出す。画面を見ると、確かにリョーマの返信率は圧倒的に少なかった。余計な事を言ってしまったと口をつぐむ。
 するとタイミングよくチャイムが鳴った為、リョーマはこれ幸いと「今度から気をつける」とだけ告げてそそくさと自分の教室に戻ったのだった。

*****

 中間テスト最後の科目は日本史だ。開始からしばらく経ち、残り5分のところでリョーマはシャーペンを置く。正誤は別として、ひとつを残して全ての解答欄が一応は埋まったので一安心だった。今まで日本史はあまり得意ではなかったのだけれど、図書室にある〝漫画で分かる日本史シリーズ〟を読み始めてからは苦手意識が薄れた気がするし、事実答案用紙も前に比べて埋まるようになってきた。
 手持ち無沙汰で頬杖をつき、窓の外を見る。見直しなんて面倒な事はしない主義だ。ゆっくりと流れていく雲の中にカルピンによく似た形をしたものがあって、思わず口角が上がった。カルピン、今頃何してるんだろ。

……あ、思い出した。
 ふと頭に単語が浮かび、再びシャーペンを取って唯一の空欄を埋める。これも少し前に漫画で読んだ気がしたのだ。
 改めて、今度は解答欄が全て埋まっているテスト用紙を見やる。苦手科目の解答用紙を全て埋められてた事に一番驚いているのはリョーマ自身だった。それも図書委員活動のついでに漫画を読んでいただけで、大した努力もしていないのに。

 そして唐突に思い出す。そういえばあの漫画は​みょうじが勧めてくれたものだ。
 最初は国語の勉強の足しになれば、と言われてあまり気乗りしなかったのに、いつの間にかシリーズを制覇する勢いで読んでいるなんて。

〝「越前くんってすぐ返事してくれるから、盲点だった」〟

 連鎖的に脳裏にみょうじの姿がよみがえった。あの時と同じ笑顔で頭の中の彼女が「えへへ」と短く笑う。
 ほら、やっぱり俺ってすぐ返信するんじゃん。カチローのはたまたま、忘れてただけ。と、誰にともなく心の内で言い訳をする。そしてカバンの中に入っている自身の携帯電話を思い出して、胸の辺りが不思議に重くなった。

 修学旅行から帰ってきてから、みょうじとは一度もメッセージのやりとりをしていない。元々必要以上の連絡をした事もないはずなのに、今はそれが気になって仕方なかった。
 そう言えば彼女から貰った土産だってカバンの中に入れっぱなしだ。カルピンみたいな箸置きを差し出して、「越前くんにそっくり」と笑ったみょうじの瞳は七色の光を反射していた。あの時、

 ちりん、あの日店のどこかで聞こえた風鈴の音が記憶の彼方で聞こえる。……あの時、みょうじの表情をもっと見ていたくなった。きらりきらりと輝く瞳をずっと見ていたかった。
 あれ、ずっと? なんで、俺、そんな事……――みょうじが、

……みょうじが、可愛かったから、だ。

「―― っ!?」

 思わず立ち上がる。ガタリッッ!と椅子が立てた大きな音は、同時に鳴ったチャイムの音でかき消された。

「はーい、じゃあ一番後ろの席の人は解答用紙を集めて……って、越前くん、どうかした?」
「あ、いや……なんでもないッス」

 寝ぼけていたのかしら? とからかう教員を他所にリョーマは再び席に着く。クラス中が中間試験が終わったという安堵しきった空気の中、リョーマは人知れず頭を抱えた。

 うわ、可愛いって俺……まじ?

 気付いた途端、心臓が煩いくらいに騒ぎ出す。この気持ちに名前がつけられないほど、もう子供じゃない。けれど、
 同時にショックを受けたみょうじの顔を思い出して、今度は自己嫌悪の波が押し寄せる。

「かっこ悪すぎだろ……」

 実は君が好きで、離れたくないから受験の話を聞いていじけてました。なんて、言えるわけがない。

*****

 中間試験からようやく解き放たれて、今までのストレスをぶつけるようにリョーマは部活に打ち込んでいた。新旧の部長副部長が集まって今日の練習内容を確認した後は走り込みなどの基礎訓練、そしてそれらも終えて、今はコート内で後輩を相手にラリーをしているところだ。

 中学に入って初めてラケットを握ると言っていた1年生が打つ球はどれもがリョーマにとっては好球で、手加減込みのスマッシュを打つと、1年生は身体が追いつかず呆然と球の軌道を見送った。これでも取れないか、とダメだとは思いつつも初心者相手だとどうしてもあくびを噛み殺す思いになってしまう。2球取りこぼしてしまったら交代、というルールはリョーマの側でも有効なはずなのに、先ほどから回転しているのは相手側のコートばかりだ。

「腰が引けてフォームがなってない」
「はい、すみません!」
「別に、次までに直せてれば良い。……じゃ、交代」
「あ、ありがとうございましたっ!」

 小走りでコートから出ていく後輩を尻目に、リョーマは息をひとつ吐く。一人一人の後輩は大した事がないものの、インターバルも挟まずに何人も相手をして徐々に疲れが溜まってきたのだ。汗はかいていないものの秋の空気が喉を乾かしてくるし、自分もコートを離れてベンチに置いたドリンクボトルを取った。喉に流れるドリンクの心地よさを感じながら、視線はふと校舎に向かう。
 いつからだろう。目の前の黄色いボールばかり見てたはずなのに、練習の合間に校舎の最上階端を見上げるようになっていたのは。

 テニスに打ち込んでいる時は気付かなかった。今は打ち込んでないと言ったら嘘になるけれど、中学最後の夏の大会が終わり青学の柱としての役目を終えて、周りを見渡す余裕ができたのだ。そして自分自身のテニス以外の部分に向き合えるようになって、その頃にはもう、心の中にみょうじが住み着いていた。

「――長……部長?……越前部長!」

 強い調子で呼ばれてリョーマは我に帰る。ぼーっとしていたらしい。呼ばれた方に顔を向けると、新しく部長になった後輩がいつの間にかコートの中に入っていた。

「……部長はお前」
「あ、そうだった。てかそうじゃなくて!」

 次は俺が相手ですよ! ほら早く!
 そう言って彼は頭上でラケットを振り回している。桃城や菊丸を彷彿とさせるこの後輩は些か煩わしいが、そんな彼の相手をする事は少しだけ楽しいとリョーマも認めざるを得なかった。だって、コイツ強いし。俺ほどじゃないけど。

「今日こそ越前ぶちょ……元部長から1ポイント取りますから、覚悟してくださいよ!」
「そういうのは取ってから言えば?」

 それにしてもこの後輩はずけずけと生意気に物を言う。自分も1年の時は似たようなものだったから、桃先輩もこんな気持ちだったのだろうか。けれどテニスの時に見せる不遜な態度とは対照的に普段の生活では素直だし1年生に対しては面倒見も良いから、新部長にこの後輩が選ばれた時はリョーマも納得した。
 何はともあれ、今は部活だ。邪念を払いのけるように、リョーマは軽く頭を振ってコートに戻る。

 けれど一度散った集中力は、なかなか戻ってきてはくれないようで。
 視界の端に映る校舎がそわそわと気になって仕方なくて、ラケットを握る手にも力が入る。しまった、と思う頃にはラケットの先端に当たったボールが情けない放射線を描き、ネットの手前に落ちていた。

「……やった」

 呆然と開いた後輩の口から小さく言葉が漏れる。彼はすぐに「越前部長から1ポイント取った〜!」と踊り出さんばかりの勢いで騒ぎ出した。コートの外で順番を待っていた部員でさえ驚きの表情でこちらを見ている。3年に上がってからリョーマが部内で点を取られた事は一度としてなかったので、誰にとっても青天の霹靂だった。

 思わずガッドを握る。繊維が食い込んで痛かったけれど、そんな事はどうでも良いと思えるほどに悔しかった。イライラする。後輩に点を取られた事ではなく、取るに足らない事に気を取られて目の前の試合が疎かになった自分に。

「……ああ、クッソ!」

 誰にも聞こえない声で悪態をついてから、リョーマはたまらずコートから出て真っ直ぐ金網の外へと向かう。

「どこ行くンスか、越前部長!?」
「だから部長はお前。……ちょっと抜ける」

 また後で相手してあげるからと続けると、後輩は口を尖らせながらも「早く帰って来てくださいね」とリョーマを送り出したのだった。

*****

 階段を上がり3階、廊下を進み1度曲がって、人影の少ない校舎の隅の一帯に図書室は設置されている。
 リョーマが引き戸を開けると、もうすぐ閉館時間だからかあまり人影はなかった。
 扉のすぐ横には貸し出しカウンターがあり、今日の当番がリョーマを一瞥してからまたつまらなさそうに携帯電話に視線を戻す。カウンターの前に置かれた長机には2、3人座っているが、その全員がリョーマの知らない生徒だった。

 長机より向こう側に聳え立つ本棚まで向かい、間を抜けていく。図書室の奥の方まで行くと、テニスコートがよく見える窓の前に並んだ個人用の机のひとつに、ようやく探していた人物を見つけた。顔を伏せ参考書の問題を解いているようで、リョーマが近くにいる事に気付かない。たったそれだけの事で、辺りの酸素が薄くなったような気がした。
 隣に立ってノートに影を落とすと、やっとリョーマに気付いて彼女は顔を上げる。

「え、あれ、越前くん? なんで……今日当番だっけ?」

 あ、もしかしてもう閉館時間? なんて続けるみょうじが立ち上がる前に、リョーマは「違う」と言ってカバンを取ろうとする彼女を遮った。けれど次に続ける言葉が思いつかない。
 戸惑いと不安を含んだ視線が遠慮がちにリョーマに注がれる。修学旅行でとった態度の事だとか、先ほどから自分の心を乱れさせるこの感情の事だとか、言わなければいけない事は色々あるはずなのに。

「……受験科目、なに?」

 やっとの事でひねり出した言葉は突拍子も無いもので、口下手な自分をなじりたくなる。まさかみょうじもこんな事を聞かれると思ってなかったのか、聞こえた声から困惑がいやでも伝わってきた。

「国数英と、自己PR文だけど……」
「英語、また分からない事があったら教えてあげても良い。数学も角度は無理だけど、関数なら割と得意」

 相手が息を飲むのが聞こえる。どんな返事が来るのかと思うと、先ほど潤した喉がまたからからに乾く思いだった。そして、

「……自己PR文、英語で書かないといけないの……だから、助かる」

 震える声を絞り出しながら、みょうじは今にも泣き出しそうな顔で笑う。そんな彼女の姿と言葉に、リョーマは京都から帰って以来初めてちゃんと息ができるような思いだった。







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