​物理的≠心理的、unknown。


 夕食も終わり、大浴場から帰ってきたリョーマは何をするでもなく携帯電話を手に取る。電源のついた画面には“​みょうじ​なまえ”という字が表示されていた。メッセージアプリを開くと、受信時刻は10分ほど前を示している。

『渡したい物があります。1階にいるので、もし時間があれば来てくれませんか』

 改まったような敬語に少し笑った。なんだろう、と疑問に思いつつ特に用事もなかったので『了解。今から行く』と返信を打つ。
 ​みょうじとは何度かメッセージのやりとりをした事はあるけれど、いつも委員会の内容やテニスの大会の日程など事務的な質問をするばかりで、こうして何かに誘われるというのは初めてだ。

 早速部屋の外に出ると廊下からでもそれぞれの部屋の騒がしい事がうかがえる。
 夕食が終わった後は基本的に部屋に待機で、勝手にホテルの中を動き回ってはいけない事になっていた。しかしそれが建前という事は誰もが承知で、正面玄関さえ出なければ見張りの教員に咎められる事はない。

 ロビーには生徒がちらほらとおり、小さなグループを作って何やら話し込んでいる者もいれば、親しげな様子で教員と会話をしている生徒もいた。けれどその中のどこにも​みょうじの姿が見当たらない。

 もう一度その場にいる生徒の顔をざっと確認して、まさかと思いつつ大浴場に繋がる廊下に進む。すると途中にある休憩所のような場所でやっと目当ての人物を見付けた。ベンチに腰掛けていつも通り本を広げ、熱心に文字を追っている。なんとなく今朝のようにすぐ気付いてくれると思っていたので、無性に肩透かしを食らったような気分になった。なのでリョーマは人ひとり分だけ間を開けた彼女の隣に、わざと大きめの動作で腰を下ろす事にする。

「来たけど」
「わあ! びっくりした!」

 ドカリと効果音でもつきそうな勢いで座れば、​みょうじは大げさに飛び上がってそのまま本も閉じた。彼女を驚かすのは今日はこれで2回目だ。自分で呼び出しておいてそこまでびっくりしなくても良くない? と戸惑うよりも先に呆れてしまう。けれどそれは不快なものではなく、逆に彼女をからかう事はもはやリョーマの中では楽しい事柄に分類されていた。

「で、渡したい物って?」
「あ、えっとね、」

 ​みょうじは2人の間に本を置き、代わりに紙袋を取り上げる。土産物屋でよく見るそれは、渡されればリョーマの掌に収まるような大きさだった。
 開け口に貼られたテープを剥がす。中身を取り出してみると、日中ガラス細工店で​みょうじが見つけたカルピンそっくりの箸置きではないか。
 なんで俺にこれを? そんな意味を込めて目線を送ると、​みょうじははにかんで答える。

「ストラップのお礼」
「別に良かったのに」
「私が何かお返ししたかったの」
「……サンキュ」
「こちらこそ、ありがとう」

 ラリーのように繰り返されるお礼の最後にリョーマはひとつ頷く。それから会話は無くなったけれど、まだ部屋へ戻る気にはなれなかった。部屋を出る時に堀尾がテレビをつけるところだったし、今頃他の2人も加わって騒いでいるかもしれないからだ。
 リョーマにとって沈黙は苦にならないけれど、相手にとってはそうでもないらしい。「えっと、」と戸惑うような声が小さく聞こえた。

「それにしても、まさかもう来るなんて」
「今から行くって送ったけど」
「えっ!」

 慌てた​みょうじが懐を漁った。取り出した携帯電話の画面を見ながら、「本当だ、気付かなかった」とひとりごちる彼女の手からあふれたストラップは紛れもなく今日リョーマがあげた物で、その揺れる姿を見るとなんだか鼻の辺りがむず痒くなって手でこする。

「越前くんって返事すぐしてくれるから、盲点だった」

 えへへ、と​みょうじは短く笑う。そしてそのまま「ちょっと意外だよね」と続けた。

「メールの返信とか遅そうな印象なのに」
「何そのイメージ、勝手すぎ」

 少しムッとして口を尖らせると、彼女はすぐさま「ごめん」と眉尻を下げる。さすがに態度が悪かったかもしれないとリョーマは急いで付け加えた。

「見た時に返す。普通じゃない?」
「私、時々後で返そうと思って忘れちゃ、」

 言い終わらない内に​みょうじが両手を口元に持っていく。くしゅん。次いで控えめなくしゃみが出た。女子の入浴時間は男子よりも早かったし、湯冷めしてしまったのだろうか。

「​みょうじっていつからここにいんの?」
「越前くんが来るちょっと前だよ。ここって案外静かで集中できるの」

 ​みょうじが本にそっと手を乗せる。つられるようにして表紙に目を向けると、『氷帝学園高等部推薦入学対策』というタイトルが目に入った。想像もしなかった文字列にリョーマは思わず戸惑う。

「何、それ」

 声が掠れている。思っていたよりも衝撃を受けている自分に気付いて、更に頭を殴られたようだった。
 そんなリョーマの心情を感じ取る事もなく、​みょうじは「実はね、高校は外部受験しようと思ってるの」と明るく告げる。声がやけに遠くの方で聞こえた。

「越前くんに英語を教えてもらってた時の事、覚えてる?」

 今夜の彼女はやたらと饒舌だ。

 あの本を読み終えた後ね、別の本の原書を調べてみたの。そしたら、その本はフランス語だった。幼い頃に読んでた絵本はドイツ語からの翻訳だったし、世界には色んな言葉があるんだなって感動しちゃって、そしたら英語だけじゃなくて世界中の言葉で本を読んでみたいと思ったの。それでね、氷帝なら高校生の内から色々な言語が学べるって聞いて。

「少年老いやすく学成り難しって言うし、挑戦してみたいなあって」

 私少年じゃないけど。と最後に鈴の鳴るような声でコロコロと笑う姿は、ガラス細工のようにきらりきらりと光を反射しているようで。

「やっとやりたい事ができたの。越前くんのおかげ」

 いつか、彼女に言われた言葉を突然思い出す。

〝「越前くんのテニスしている姿がきらきらして、どきどきして。私も何か頑張れるものがほしいって思ってこの本を読み始めたの」〟

 あの時と同じような話をしているのに、今は​アンタの方が余程きらきらしてるじゃん。なんてぼんやりと考える。昨日から変だ。​みょうじの周りを流れる空気がおかしくて、きらりきらりと輝いているのはガラス細工が光を反射しているからだと思っていたのに、そうじゃないみたいで。
 それに、極め付けでおかしいのは、自分だ。
 こんななんでもない事に、どうしようもなく苛ついているだなんて。

「越前くん……? どうか、した?」

 一言も声を発さないリョーマにさすがに違和感を感じたのか、​みょうじが顔を覗き込んできた。その目線に捉えられるのが嫌で、あからさまに顔をそらす。

「……別に。それ、俺には関係ない話だし」

 じゃあ、もう消灯時間も近いから。
 それだけ言って立ち上がる。彼女が何か言いたそうにしているのは感じ取れたが、何かを言われる前にその場を立ち去った。

*****

 修学旅行の3日目は班ごとに分かれて自由に行動しても良い日となっていた。

「10時に出発だ。もうここには戻らないから忘れ物がないよう片付けておくように」

 昨日と同じように宴会場で朝食をとった後、教員がそう言ったのを合図に生徒は一斉に立ち上がった。最後の思い出にとカメラ片手に施設に散らばる生徒もいたけれど、大半が荷物を片付けに向かうようだ。
 リョーマも同じように部屋への道を戻ろうとした時に、ふと人混みの中でジャージ姿の​みょうじを見つける。今日も髪をポニーテールに結い上げていて、彼女が友人に向かって頷いたり、笑ったりする度にゆらゆらと小さく踊っていた。なぜか、昨夜と同じような苛立ちがぽつりと湧き上がる。
 向こうも視線を感じたのか、互いの目線がぶつかった。何か言いたそうに口を開いたのが見えたけれど、ふい、と顔をそらす。急に用事を思い出したのだ。

「堀尾」
「お、なんだ越前?」
「あとどれくらいで出発だっけ?」
「なんだよ越前聞いてなかったのかよ~。10時に出発だから……げ、あと30分もないじゃんか!」

 急ごうぜ! と人ごみをかき分けて進む堀尾の後に続いて、​みょうじがいた方とは反対の方向へ向かう。視界ギリギリに彼女のショックを受けたような顔が入った気がしたけれど、見えない、フリをした。

―――― ……。

 最終日も過ぎるのはあっという間だった。後半からコースが似ているという事でカツオやカチローとも自然に合流し、堀尾も合わせて一緒に見物した京都はなんだかんだ言って楽しかったと思う。なんの因果か四天宝寺中の遠山とも偶然鉢合わせた時は相変わらず「勝負やコシマエー!」と迫られたけれど、それを含めても悪くない旅行だった。
 けれど結局、理由の分からない苛立ちがリョーマの心の底で漂い続けるのに変わりはなく、帰り道でひとりになった途端に思い出してしまうのだった。

「ただいまー」
「あら、おかえりリョーマ。早かったのね」
「ん、土産ここに置いとく」
「Thanks!」

 3日ぶりに帰宅した家は当然の事ながら変わった事もなく、母親は鼻歌を歌いながら夕飯の支度をし、従姉はそれを手伝っていた。リョーマは結局京都駅で買い揃えた土産物を全てダイニングテーブルの上に置いて、自室へと続く階段を上がる。

「おー、帰ったか少年!」

 中程まで上がったところで後ろから声をかけられた。振り向くと父親が相変わらず坊主もどきの姿で肩にテニスラケットを担いでいる。

「夕飯までに1ゲームどうだ? お前も身体が鈍ってきてるだろ」
「着替えたら行く」
「おう、そうこなくっちゃな!」

 テニスコートで待ってるぞ、という間延びした声を背中に受けながら残りの階段をかけ上がる。部屋に着いたら荷物を無造作に置いて、動きやすい服装に着替えてから裏庭のテニスコートへ向かった。父親の言う通りもう3日もロクに身体を動かしていないし、テニスをすればこの苛立ちも吹き飛んでくれるかもしれない。

 そうして始まったゲームは生まれて初めてラケットを握った時から変わらず、今回も南次郎の優勢だった。元々機嫌が悪かった事も加え、スマッシュを打つ手にもいつもより力が入ってしまう。

「おっと、」

 球がラケットを弾きそうになったが、南次郎は全身を使いあっという間に球威を殺して打ち返してきた。

「さすがに3年生にもなると力もついてきたな……んじゃ、このゲームお前が勝ったら利き手を解禁してやろうか」

 軽い調子で南次郎は告げる。10年以上息子相手に利き腕と違う方の腕を使っているのは知っていたけれど、だったら今替えてみろよなんて思いながらリョーマは更に力を込めて打ち返した。今日こそは絶対に1ゲーム取ってやる。

「本当、むっかつく」
「何イライラしてんだ、少年?」
「親父には関係ない」
「なんだ、修学旅行で好きな子に告白でもしてフラれたか?」
「はあ!?」

 余計な詮索をされてはからかわれるのは昔からの事なのに、それでもいちいち反応してしまうのが悔しい。動揺して打った球は見事なまでにラインの外側ではねた。アウトだ。

「その様子だと告白まではいかなかったみたいだな。ヘタレめ」
「別にそういうんじゃないし」
「少年老い易く、恋成り難しってな」
「学成り難しだろ」
「お前が知ってるなんて珍しいじゃねーの」
「バカにすんな」

 言葉を交わしながら行われるラリーに終止符を打つように、リョーマは決め手のストレートを南次郎の死角であろうアウトラインギリギリに向かって打った。自分でもなかなかにいいところを狙えたと思ったけれど、いつの間にか移動していた南次郎に軽々と返され、逆に死角を突かれてしまう。
 数え切れないほどしてきたゲームを勝利したのは、今日もまた父親である南次郎だった。

「……もう1ゲーム」
「やなこった。夕飯に遅れたら、母さんにどやされちまうからな」

 お前も好きな子がいるならよーくその子の言う事を聞いとけよ。かわいくねー態度で悲しませるんじゃねーぞ。
 なんて言いながら南次郎は片付けもせず、再びラケットを肩に担いで母屋へ向かう。

「だから、そういうんじゃないって言ってるだろ」

 ツンケンとした態度で言い返しても南次郎はひらひら手を振るだけだった。
 コートの中にいても、ひとりではテニスができない。仕方なくボールを拾い、家へ戻る。
 胸のイライラは汗と一緒に流れていってはくれなかった。







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