ところが、王子さまは


 夢と現の狭間、現実寄りで微睡んでいる内にアレンデールにまた朝日が登ってきた。仕方がないのでエルサはベッドから這い出る。よく眠れなかったので身体が怠かった。
 クローゼットを開けて、いつもよりものろのろと着替え始める。昨日の事を彼に謝らなければと思うと急かされるような、それでもどこか気が重くて動き辛いような気分になった。寝不足も相まって今の自分はひどい顔だろうと、更に溜め息をついてしまう。
 鏡を覗く。思った通り、ここまで沈んだ自分の顔はいっそ久しぶりだった。

「……しっかりするのよ、エルサ」

 意を決して両頬を軽くたたき、自分に気合を入れる。うじうじしていても仕方がない。13年越しの恐怖と闘ってきたあの頃に比べれば、こんな事はなんでもないではないか。
 エルサは自室を出て中庭へと向かった。

 中庭ではいつも通りなまえがひとり、東屋に座って読書をしていた。エルサも時間にはルーズでない方だが、それでもいつも彼が先にここへ着いている。一体どれだけ早起きなのだろうと彼女が疑問に思っていると、気配に気付いたのか彼が顔を上げた。

「おはよう、エルサ女王」
「おはよう、なまえ王子」

 傍まで来て、柱に寄り掛かる。目前の芝生が朝露に濡れて光っていた。
 言うなら今しかない。

「……その、昨日はごめんなさい」
「いや、仕事があったのならば仕方がない。公務を優先するのは当たり前の事だ」

 彼の言葉にエルサは胸を撫で下ろした。どうやら昨日の彼女の言葉を真に受けたようだ。雰囲気を変えようとエルサは努めて明るく振る舞う。今まで通り楽しくおしゃべり出来れば良いと思った。

「良かった……昨日はずっと気になってて、夜に謝りに行こうとしたぐらいなのよ」

 妹の提案で、と言うのは伏せておく。からかわれるかもしれないと思ったからだ。すると何故か、なまえの顔が強張ったではないか。普通でない様子はエルサにも伝わった。

「俺の部屋に来たのか?」
「え、ええ。悪いと思ったのだけれど、少しだけ覗いて、寝ているようだったからすぐに帰ったわ」
「……中を、見たのか」
「暗くてよく見えなかったけど……そう言えば、檻を見たわ。随分と大きなペットを飼っているのね」

 言ってくれれば専用の場所を用意したのに。と続けようとして、けれどエルサは何も言えなくなった。なまえが持っていた本を乱暴に閉じ、立ち上がったからだ。驚いて彼の顔を覗き込む。彼がこんなに荒い動作をしたのは初めてだった。

「…………あれは俺だ」
「え……?」

 何を言われたのか理解できなかった。昨夜は暗くてよく見えなかったが、それでもあの赤い瞳が人間であるはずがない。ドラゴンやユニコーンなど、空想上の動物を言われた方がまだ納得できると言うものだ。

「すまない。気分が優れないので、今日はこれで失礼する」

 そして彼はそそくさと去ってしまった。
 一瞬だけ向けられた視線を思い出すだけでエルサはぞくりとした恐怖に身を震わす。無表情でもどこか暖かな感情が滲んでいる普段とは打って変わって、彼の黒い瞳は酷く冷たかったのだ。

*****

 沈んだ気持ちのままエルサが書斎で仕事をしていると、部屋の前にいるはずの召使がなまえの名前を高らかに告げた。通すように言うと大きな扉が開けられ、彼がまっすぐこちらへ向かって来る。そのかんばせは今朝と変わらず、頑なな冷たさに満ちていた。エルサの仕事中、彼がここに来た事は今までにない。

「どうしたの?」
「世話になった。俺は今日、アレンデールを発とうと思う」

 突然の事にエルサは動揺を隠せなかった。理由を聞いても「見合いには充分な期間が過ぎた」と言うだけで、彼は詳しい事情を話さない。

「断りの手紙は後日、そちらから正式に出してくれて構わない。その方がそちらの名誉も傷付かなくて済むだろう」

 それではこれで失礼する。となまえは続け、エルサが言葉を次ぐ前に扉の向こうへ消えてしまった。

 あれよあれよと言う間に支度が進められ、2人がそれ以上言葉を交わす事もないままなまえを乗せた船はアレンデールの港を後にしたのだった。

*****

 客人がいなくなった次の日もエルサはいつもと変わらず、今度は城の修繕に関する書類に目を通していた。けれど固い言葉で飾られた文章は視界を滑っていくばかりでちっとも頭の中に入って来ない。彼女の思考は、突然いなくなってしまった賓客の事でいっぱいだった。
 今思い出しても背筋を震わす、あの冷たい瞳――あんな瞳をさせてしまったのは自分の不容易な発言だと思うと、エルサの気持ちはますます冷たい雪の中に埋もれるようだった。

「――姉さんッ!」

 突然、書斎の扉が音を立てて開かれる。勢い良く入ってきたアナの様子から察するに、入り口の従者の動作が待ちきれなくて自分で開けたのだろう。

「聞いたわ、なまえ王子が突然帰ってしまったって」
「……ええ。もうお見合いには充分過ぎる程、彼はここに居たもの」

 前日彼に告げられた言葉を復唱する。声に出す事で事実を受け入れようと思ったけれど、余計心のもやもやを大きくするだけだった。
 対してアナはそんな姉の様子に気付かず顔を輝かせる。

「じゃあ、縁談はまとまったのね!」

 結婚の準備をする為に帰ったんでしょう? と続ける妹の言葉に被せるようにエルサは否定の相槌を打つ。そして先刻まで読んでいた書類を隅に追いやると、机に備え付けられた引き出しから王家の紋章が入れられた便箋を取り出した。

「今から断りの手紙を書くところよ」

 信じられない、とアナの目が見開かれるのを他所に、彼女は『親愛なる国王陛下へ』と便箋に書き入れた。なまえ個人宛てにではなく国王へと宛てた手紙は、あちらの国に周知される正式な物となるだろう。

「姉さん?」

 アナが何を言いたいかぐらいは想像が付く。だから無視して、文面の事だけを考えるようにした。

「姉さん」

……何故だろう、手紙はたくさん書いてきたはずなのに良い文章が浮かばない。ただきれいな言葉で挨拶をした後、一言、彼とはもう会わないとだけ書けば良いのに――

「エルサ!!」

 頬を両手で挟まれて無理やり上を向かされる。眉を吊り上げた妹と目線が合って、気まずくなって目を逸らした。この訳の分からない心のもやもやを見透かされたくない。

「本当にそれで良いの?」
「……元々こういう約束だったもの」

 アナには言ってなかったけど、と前置いてエルサは告げる。最初からなまえとは、互いに結婚する意志がない事を確認していた。そう、全ては予定通りなのだ。むしろ両国の間で結婚の話が具体的になる前に終わって良かったではないか。

「でも!……彼の事、好きなんでしょう?」

 アナの言葉がじわりと胸に染み込んで心の蓋を開けようとする。急いで閉め直すように、エルサは妹の手を除けた。
 ふと、どこからともなくチョコレートの香りが漂ってきた。ああ、そう言えば頭が働かないから、何か甘い物を。とメイドに頼んだばかりだった。紅茶の代わりにホットココアを用意してくれたのかもしれない。

『…………チョコレートを嫌う者は、いないと思うのだが』

 そうして呼び起されたのは数日前の記憶だった。彼と一緒に嗅いだチョコレートも、とても甘い香りがしたのを覚えている。そして次々と頭の中で甦るのは彼の赤く染まった耳、恥ずかしがると髪に右手を突っ込む癖――

 ああ、だめだ。
 蓋が、閉まらない。

「…………好きよ。彼の事が、とても、好き」

 言葉にしてしまえば、せき止めていた感情は止めどなく溢れ出した。

「好きなら追いかけなきゃ。気持ちを伝えるの」
「女王が勝手に国を離れる訳にはいかないわ」
「もう、エルサ!」

 アナはじれったそうに足踏みし、机を回り込んでエルサの隣まで来る。彼女の椅子を強引に引いて、横を向かせた。そしてその場に両膝を立てて座り込み、自身の姉の顔を覗き込む。握られた羽ペンをそっと外して机の上に置き、両手を取った。

「何の為に私がいると思ってるの? 国の事は全部姉さんに任せて、ただ毎日遊んで暮らす為じゃないわ」
「でも……」

 尚も渋るエルサの両手を、アナは更に力を込めて握る。

「姉さんには後悔して欲しくないの。それに……」
「それに?」
「彼とは今日初めて出会った訳じゃないでしょ?」

 茶目っ気を乗せてアナは片目をつぶる。呆気にとられたエルサはすぐに去年の妹を思い出し、笑い出さずにはいられなかった。

「ふふっ!……そうね。そうだったわね」

 ありがとう、と締めて、エルサは妹の手をそっと解く。そして立ち上がると、入り口に控えていた従者に告げた。

「船を用意して。準備が出来次第、彼の国へと向かいます」

 嬉しそうに再度自分の名前を呼ぶ出来た妹の肩に手を置き、エルサは感謝の気持ちを込めて「なるべく早く戻るわ」と伝えたのだった。







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