王子さまをたすけるには、ただひとつ


 翌朝、門番に肩をたたかれてエルサは地下の扉の前で目を覚ました。
 あれから扉の向こう側では耳を覆いたくなるような怒声や破壊音が続いたが、教会の鐘が1時を告げると同時に水を打ったように静かになったのだ。けれど彼女は動く気力すらなく、気が付けば眠りに落ちていたらしい。

「ごめんなさい。これでは彼が出られないわね」
「……いえ、」

 兵士の返答は含みのあるものだった。首をかしげて無言で続きを促すと、彼は気まずそうに口を開く。

「王子がこの部屋から出る事は許されておりませんので」

 驚きで言葉もなかった。これでは幽閉ではないか。この国のなまえへの対応は我慢ならないものばかりだ。誰もが彼を恐れ、存在を疎ましく思っている。――彼自身はあんなにも祖国を気にかけていたと言うのに。

「……彼に会わせて」

 やっとの事で絞り出した言葉に兵士は無言で応え、再び扉は開かれた。
 扉をくぐると、なまえは呆然とした表情でエルサを凝視していた。彼は変身する時に裂けてしまったのだろう端切れのような服を纏い、ボロボロになった本の山から幾分かマシな物を選んで開いているようだ。

「エルサ女王……どうしてここに!?」
「あなたを追いかけて来たの」

 膝をつき、床に座り込む彼に目線を合わせる。しかし彼はわざとらしいまでにエルサから目を背けた。

「……俺はここから離れるつもりはない」
「でも、このままだと殺されてしまうわ!」
「分かっている!!」

 怒鳴るように、言葉はなまえの口から吐き捨てられた。大きな声にエルサが怯んでいる内に、今度は背中を向けて再び檻の中へ入る。

「どんなに抗っても、真夜中前に意識は途切れる。知らない間に人を殺している者の気持ちが、貴女には分かるのか」

 エルサの方を見もせず彼は頑なな声で言った。それが絶対的な拒絶を意味している事を彼女は嫌でも感じ取ってしまう。

「もうたくさんなんだ。俺は充分生き過ぎた。……エルサ女王を外へ案内して差し上げろ」

 最後の言葉に、扉の傍らで静かに佇む兵士が反応する。こちらへ、と促されエルサは外に出る事を余儀なくされた。

「エルサ女王……貴女にだけは、こんな姿を見られたくなかった」

 背中越しにかけられた言葉が切なく彼女の胸を締め付けるのだった。

*****

 客室に戻ったエルサは放心したまま、何をするでもなく昼を迎え、夜を迎えた。

 その晩も使者が訪れたが、彼女が客室から出る事はなかった。ただベッドの上で布団に包まり、地下から響いてくる叫び声を聞かないようにするので精一杯だったからだ。

*****

 彼の国に来て3日目の朝、エルサは単身城下町を彷徨っていた。ここから港までは近い。このまま船に乗って、アレンデールに帰る事も可能だ。そうだ、自分は帰れと言われたのだから、帰れば良いではないか。アナには適当な理由を告げて、何事もなかったようにまた毎日を過ごせば良い。

 彼の事は忘れてしまおう。しかしそう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、身体に宿る苦しみは更に重くなるようだった。

「――……ぃします……どうか……」

 ふと、か細い声がエルサの耳に入った。辺りを見回してみると道端にひとり、貧しい老婆が横たわっているではないか。老婆は道行く人々に懇願するが、見て見ぬふりをするだけで救いの手を差し伸べる者はいない。
 国が大きくなればなるほど、貧富の差が出てしまうのは仕方のない事だ。そのような事がないようにするのがエルサの務めだが、アレンデールでも彼女が知らないだけで、今も誰かが貧しさに喘いでいるのかもしれない。……そう思うと胸が詰まって、気が付けばエルサは老婆の元に駆け寄っていた。

「おばあさん、大丈夫ですか?」
「……ず……みずを…」

 掠れるような老婆の声を聞き取って、エルサは近くの店で水を譲って貰えるよう打診する。「関わらない方が良い」と店主に言われたが、金貨を握らせると渋々ながらもコップ一杯の水を手渡された。老婆の元に駆け戻り、零さぬよう水を与える。飲み干した老婆は一息つくと、皺くちゃな手で彼女の両手を握った。

「ありがとう。こんなに親切にしてくださったのは貴女が初めてじゃ」
「いいえ、困っている人を助けるのは当然の事です」

 老婆の目線が彼女に突き刺さる。その瞳の奥は不思議な光を帯びていて、心の底まで見透かされているような気持ちになった。

「お礼に、良い事を教えてあげよう」
「良い事?」

 老婆が片手を上げ、エルサに耳を近付けるように催促する。老婆の口元に耳を当てると、掠れた、けれど妙にしっかりした声で老婆は言った。

「その人を救いたいのなら、元の場所で夜を明けさせてはならん」
「え……?」

 何故あなたがそれを? と言いかけて彼女が顔を上げると、不思議と老婆は忽然と消えていた。呆気に取られてその場に立ち尽くす。しかし何故か、老婆の言葉はエルサに城へ戻る勇気を与えたのだった。

 泣いても笑ってもあと一晩なら、今夜は彼の傍にいたい。

*****

 その夜、エルサは従者に連れられて再びなまえの部屋を訪れていた。古い木の扉の前で一息つき、意を決して中へと進む。最初の晩と同じように、彼はベッドに横たわって静かに寝息を立てていた。ゴクリ。檻の外で生唾を飲む。

 教会の鐘が、真夜中を告げた。

 耳をつんざくような咆哮を上げ、なまえは獣に変化する。理性を失った瞳でエルサを見付けると壊さんばかりの勢いで檻の戸を開けた。地を這うような声で唸ると次の瞬間、エルサの目前には獰猛な爪が迫っていた。前回と同様分厚い氷の壁を作って彼からの攻撃を防ぐ。そして部屋の隅まで走り、自身を守る様に氷の棘をいくつも作り出した。

「私の声を聴いて!」

 力の限り叫ぶ。しかし返ってくるのは乱暴な雄叫びと次の攻撃だけだった。エルサを囲んだ氷の棘は一振りで薙ぎ払われ意味をなくしてしまう。隙を見て別の角へ逃げようとするもついに、彼の爪がエルサを捕らえた。

「あっ……!」

 衝撃で転び、壁まで転がっていく。右肩が焼けるように熱く、見てみるとドレスが破れて血が滲んでいた。全身が鞭を打たれたように痛む。背中を打った衝撃で肺から空気が抜けたのか、彼の名を呼んでも「ひゅう」と声にならなかった。頭を振って、霞みそうになる視界をはっきりさせる。目の前にはもう彼が迫っていた。

『その人を救いたいのなら、元の場所で夜を明けさせてはならん』

 突然、老婆の言葉が蘇る。それはエルサの頭に一閃のひらめきをもたらす魔法の一言となった。

「……ごめんなさい」

 再三掌を彼に向けエルサは大きな雪玉を放った。それは勢いよく彼を反対側まで吹き飛ばす。頭を強く打ったのか、なまえの動きが悪くなった。その隙を見て、エルサは中央の檻へと駆けだした。扉の位置は覚えている。滑り込むように中へ入ると、彼女は扉を凍らせ、外から開けられないようにしたのだった。

 意識を取り戻したなまえはエルサを発見し、檻に向かって何度も体当たりする。強固な作りが幸いして檻はびくともしなかった。そして、

 教会の鐘が、1時を告げた。


 ウオオオォォオォォォ――!!!


 彼が再び叫び声を上げる。しかしそれは打って変って苦しみの声だった。

「開ケロォォオーッ!!!」

 怪物は苦しみにのた打ち回っている。何故かは分からないが、彼は1時までに檻の中へ戻らなければいけないらしい。あの老婆の言葉は正しかったのだ。

―――― ……。

 どれくらい時が経っただろうか。体力を消耗したのか、いつしか彼は暴れる事を止め、その場に蹲って呻き声を上げていた。
 エルサは心配になって檻の端まで近寄る、すると彼は力を振り絞って檻の中へ腕を伸ばし、あっという間に彼女の首を締め上げてしまった。

「う……っ!」

 エルサは自身が宙に浮くのを感じた。息ができない。魔法の力で雪を出そうにも、これでは集中力が続かなかった。

「なまえ……」

 薄れる意識の中、最後の力を出し切って手を伸ばす。指先が触れた彼の頬は暖かかった。

「好きよ、なまえ……」

 エルサの目から涙が一粒流れて、なまえの腕まで伝った。

「――エル、サ、」

 首を絞めていた力が弱まり、彼女は解き放たれ座り込む。求めて止まなかった酸素が肺を満たし、彼女は何度か咳をした。
 ドサリ、鈍い音を立てて怪物が崩れ落ちた。体躯を支えるように檻の柱をきつく握り、息を切らしている。顔を上げ目が合うと、その瞳は理知的な、深い色を湛えていた。彼の瞳だわ、とエルサはすぐさま這い寄った。檻の中から手を伸ばし、黒く硬い毛を掻き分けて爛れた顔を探り当てる。頬を撫でれば、この姿すら愛おしくなって、彼女は再び口を開いた。

「好きよ。あなたの事が、とても」

 そしてエルサは彼に口付ける。次の瞬間窓から朝日が差し込み2人を照らした。するとなまえを覆っていた体毛が見る見る内に短くなり、火傷を負ったような肌も白く、なめらかになるではないか。呆気に取られた彼女が見ていると、長く鋭い爪が取れた腕を檻の中へ伸ばし、彼はエルサを抱きすくめた。その力は強く、けれど決して彼女を傷付けない優しいものだった。

「……どうしてこんな馬鹿な事を」

 一晩中吠えていたからだろうか、掠れた声でなまえは呟いた。彼が戻ってきた、とエルサは嬉しくなって思わずクスリと笑ってしまう。

「……見て」

 そして片手を2人の間まで持ってくると、彼女はそこから氷の結晶を舞い上がらせた。

「その力は……?」
「生まれつきよ」

 エルサは語る。幼い頃この力でアナを傷付けてしまった事、それからは自分の力が怖くて13年間閉じこもっていた事、けれど去年の夏、アナのおかげで克服できた事。

「私は一度、アナに救われたわ。だから今度は私が誰かの……いいえ、あなたの力になりたかったの。だって……」

 あなたの事が、好きだから。とは続けられなかった。彼の瞳を見て、彼の腕に抱かれて、今になって恥ずかしさがこみ上げてきたから。

「……ご婦人に何度も先を越されては、恰好が付かないな」

 彼女がまごついているとなまえはほんの少し眉尻を下げ、苦笑しながらそう言った。そして彼女の頬に手を添えると見上げるように促す。

「好きだ、エルサ」

 そして視線が絡み合ったのを合図に、ゆっくりと唇を重ねたのだった。







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