青学の街中から越前邸の在る閑静な住宅街までの道のりを、リョーマは人力車に揺られていた。彼が育った海の向こうの大国では主に家が所有する馬車を使っていたけれど、こっちでは馬車は大人数で乗り合わせる時にしか使わないらしく家の前まではつけてくれない。かと云って自動車はリョーマ自身所有していないし、何より向こうでは見た事の無かった人力車と謂うこの乗り物がなんだかんだ物珍しくて好きだった。

 門の前に到着し、財布から無造作に紙幣を取り出して渡す。そして車夫の返事も待たずに車を降りて敷地に入った。庭先ではなまえが竹箒を片手に落ち葉を集めている。リョーマの姿を目にした途端、なまえは手を止めて此方に走り寄って来た。

「おかえりなさいませ、リョーマ坊ちゃん!」
「ただいま」

 いつも通り何がそんなに楽しいのか分からない位の笑顔の彼女を通り過ぎ、リョーマは本邸へ向かう。彼が帰って来る事を見越してか、単に空気の入れ替えをして居るのか、屋敷の扉は開け放たれて居た。玄関をくぐり、直ぐに階段から自室に上がる。きっと部屋に入って荷物を置く頃には、やっぱりいつも通りなまえが追いかけて来てあれやこれやと世話を焼いてくれるのだろう。

 リョーマが青学で暮らし始めてから今日で一週間が経とうとして居た。父親の手配した軍学校への編入手続きは済ませてあるが、学期の関係で実際に通い始めるまであと数週間あるのでそれ迄は毎日気ままに暮らしている。なまえとの関係も良好で、漸く四六時中世話をされる事にも慣れてきたところだった。

 コンコン。自室の扉を叩くする音がする。返事をすると、予想通り「失礼します」の一言と共になまえが入って来た。何故だか顔に困惑を浮かべつつ、胸の辺りで握り締めた両手をリョーマに差し出す。

「坊ちゃん、先ほど車夫が追いかけて来て、これを残して行かれましたわ」

 なまえが持っていたのは幾つかの銀貨や銅貨だった。彼女の話に寄ると、リョーマは必要な賃金よりもかなりの額を渡して居たらしい。車夫は釣銭を用意するのに今日の稼ぎやら自分の持ち金やらをかき集めて、持って追いかけて来たのだとか。
 全部自分の物にして仕舞えば良かったのに、律儀な車夫も居るものだ。なんて思いながら釣銭を受け取る。

「心付けも多過ぎると驚かれますよ」

 するとリョーマの心を見透かしたのか、なまえは呆れたような、優しい眼差しで苦笑して居た。その柔らかな瞳は可愛い子猫でも見ているようで、世話をされる事には慣れてもこれだけはどうしても気に入らない。
 何はともあれ、リョーマは鞄の中から財布を取り出し、受け取った釣銭を仕舞い込んだ。

「あの、坊ちゃん……?」
「なに?」
「それは一体如何なされたのですか?」

 躊躇いがちに上げられたなまえの人差し指はリョーマの財布を示して居た。つられて自身も視線を落とす。なんて事は無い普通の銭入れだ。紙幣と貨幣を分けるなんて事をして居ないから、その分少し膨らんでは居るけれど。

「別に、普通だけど」
「……少し、失礼しても?」

 言われるが侭、銭入れをなまえに渡す。すると彼女は恐る恐ると云った様子で中を覗き込んだ。そして中から紙幣を一枚取り出す。リョーマの記憶が正しければ、中はその紙幣が一枚と、後は全て銀貨や銅貨ばかりだった筈。必要な物以外は特に無駄遣いもしていないし、注意等される謂れは無い。

「お札はこれ以外にお持ちで?」
「全部使った」
「全部!?」

 雷にでも打たれたような顔でなまえはリョーマの言葉を繰り返した。こんなに大きな声を出す彼女は初めて見たと思いつつ、リョーマは後ろめたい気持ちでもごもごと口を動かす。段々と、なまえの云わんとして居る事が分かったのだ。

「だって、紙の方出しとけば、間違いないし……」

 リョーマの言葉を聞いたなまえは口をあんぐりと開け、次に出す言葉を探しているようだった。 
 もはや屈辱的な気持ちだ。只でさえ彼女には幼子のように見られて居るのに、青学の金にまだ慣れておらず手古摺って居るなんて事、知られたく無かった。
 揶揄われるか、呆れられると思って居た。だから言い返してやる心の準備はできていた。なのに。

「……申し訳ありません、坊ちゃん」

 実際、なまえは真面目な顔で腰を折り、謝罪の言葉を発したのだ。

「わたくしの不手際です。坊ちゃんが使っていらしたお金と青学のお金が違う事、すっかり頭から抜けておりましたわ」

 財布を机に置き、なまえはリョーマの両手をそっと握る。彼女の手はリョーマよりもひと回り小さく、毎日の家事で決して絹のような肌触りでも無かったけれど、暖かかった。

「この国の事、これから一緒にお勉強していきましょうね」

 安心するやら悔しいやらで、リョーマはどんな顔をしたら良いのか分からなかった。

******

「これが五厘で、こっちが一銭」
「左様でございます」
「これは穴が開いてるから……ゴセン?」
「いいえ、そちらは十銭です。五銭もう少し小さい……こちらの白銅貨ですよ」

 リョーマとなまえは勉強机の前で並んで座って居た。
 目の前には沢山のコインが数字の面を伏せて並べられて居る。

 一緒に勉強しようとなまえに云われ、最初は漢数字は読めるからその気に成れば問題無く使えるとごねた。けれど、「実際使う時にさっと出せなければ意味がございませんよ」と取りつく島も無かったのだ。云って居る事は最もなので仕方なく教わってみると、これがまた難しい。種類自体はリョーマが住んで居た海の向こうの大国の方が多かったのだけれど、その分青学の貨幣は覚える事が沢山有る。何より単位が全然違う。これは慣れる迄時間が掛かるかも知れない……気が遠くなってリョーマの口からあくびが零れた。

「お疲れですか?」

 なまえの問いに頷いて応える。今日は朝から出かけて、間を入れずに勉強して居るのだから当然だ。

「喉乾いた。アレ持って来て」
「いつも飲まれる物でございますか?」

 もう一度頷いたら、なまえが「かしこまりました」と添えて部屋から出て行った。暫くして盆に乗せられたグラスと共に帰って来る。コースターとグラスがリョーマの目前に置かれた。注がれてあるのは黒に近い紫色の液体で、氷が表面で海水浴をして居る。それはリョーマが向こうの国に居た時に好んで飲んで居た炭酸飲料だった。初めて青学で過ごした日に此方でも売っている事を知り、それからなまえに頼んで常に切らさぬようにさせて居る。
 ストローで一口、液体を吸い上げた。飲み慣れた甘さと炭酸が喉を潤しながら身体に染みて行く。帰宅してから漸く寛げたような気がして、ふぅ、と一息をついた。

「…………」

 炭酸のおかげで少し目が覚めたところで、リョーマは自身に向けられて居る視線に気付いた。この部屋にはリョーマの他になまえしか居ないのだから、犯人は考える迄も無い。

「……なに?」

 まっすぐ見上げて怪訝に問いかけると、なまえは漸く我に帰ったようだった。はっとして、すぐ気不味そうに目を逸らす。

「その、いつも大層な物を飲んでいらっしゃるな、と……」

 ああ、と漸くリョーマは納得した。彼にとっては幼い頃からお気に入りである飲み物だけれど、この国に輸入されるようになったのはつい最近だった筈だ。知らない人から見れば、泡立った炭のような奇妙な液体に見えるかも知れない。

「飲んでみる?」

 リョーマの中に悪戯心のような物が湧き上がって、グラスをなまえに差し出させた。ずっと教わる立場だったのが、此処へ来て彼女の知らない物を知っていると言うのは気分が良い。

「と、とんでも御座いません!」
「良いから」

 慌てて拒否するなまえにそれでも食い下がると観念したのか、渋々ながらもグラスを受け取って貰えた。なまえはじぃ、と中の液体を観察して居る。

「……夜空のような色ですね」

 細い指がストローを摘む。つい十秒程前迄は自分の唇が同じ場所に触れて居た事を急に思い出し、リョーマは不思議とそわそわ落ち着かなくなった。ストローの先がなまえの唇の中に消えていく。喉が一度、上下に動いた。と、同時になまえが目と口をまん丸に開けて顔を上げる。

「大変です、口の中で花火が弾けておりますわ!」

 一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。しかし置かれたグラスのすぐ内側を小さな泡が駆け上がる様子を見て、漸くなまえの言葉が頭の中で意味を成す。そして気が付けば短く吹き出して居た。

「花火って、何その表現……!」

 分かり難過ぎ、と云って仕舞えばもうたまらず、机に突っ伏す程の笑いが込み上げる。
 なまえは見る見る内に耳たぶを真っ赤にして「だって、本当にそう思ったんですもの!」と声を張り上げた。必死な様子が可笑しくて、笑いが収まるなんて筈もなく。年上の癖に妙にはしゃぎ回って愛想が良くて、それでも要所でやっぱり大人ななまえの素の顔が、漸く見れた気がしたのだ。

 こんな彼女との生活は、今の所詰まら無くは無いし、暫く飽きる事なんて無いのではないか。なんて唐突に、リョーマは考えるのだった。







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