朝
 まどろみの中、意識に飛び込んで来たのは腹の虫さえも目覚めさせる様な朝食の香りだった。目を開けて身体を起こす。今朝の味噌汁の具は何だろうと思いながら枕元のベルを鳴らすと、暫くしない内に軽い足音が屋敷の中を通り抜けて部屋の扉が叩かれた。返事をすれば、なまえが入って来る。

「おはようございます、リョーマ坊ちゃん」
「……オハヨ」

 未だ夢から覚め切らない頭を抱えて欠伸をし、ベッドから這い出る。成すが侭にされていたら、彼女の手に寄ってあっと言う間に着替えさせられて居た。

「朝食は部屋で採られますか?」

 なまえの問いかけに首を振る。

「下で食べる」
「畏まりました。用意は出来ておりますから、いつでもおいで下さいませ」

 それだけ云ってなまえは部屋を後にした。もう一度欠伸をしてから後に続く。

 食堂に入ると味噌汁の匂いは一層強く香った。食卓には既にご飯と味噌汁、漬物、茶碗蒸しに焼き魚とリョーマの好きな物ばかり並べられている。箸を手に取り早速味噌汁の碗を持ち上げ、口に近付けたところでコホン、と態とらしい咳払いが聞こえた。いつの間にかなまえが背後に立って居たのだ。

「坊ちゃん」
「……イタダキマス」

 椀と箸を持った侭ぎこちなく手を合わせると、漸くなまえは「はい、召し上がれ」とにっこり笑った。先日の貨幣の一件から、なまえはやたらとリョーマに青学の文化や作法を教え込む事に熱心だ。
 何はともあれ、改めて味噌汁を口に含む。今日の具はしじみか。

 朝食を平らげるまで時間は掛からなかった。鯖は小骨も含めて全て綺麗に取り払ってあったから食べ易かったし、何よりなまえの作る飯は美味い。初日に作ってくれた西洋風の料理も不味くは無かったけれど、本当は和食の方が得意だと云っていただけの事はあるようだ。

「今日はどのようなご予定で?」
「庭に出る。道具出しといて」
「畏まりました」

 片付けをするなまえを尻目に、短い云い付けだけを残してリョーマは再び自室に戻った。必要な物を揃えて貰って居る間に、自分も準備しなければいけない。
 庭に出る――やる事はひとつだ。

******

 越前家は正門を抜けて屋敷に入る迄に立派な前庭が有るが、屋敷の背後には更に、色とりどりの花や几帳面に整えられた植木に囲まれたテニスコートが存在して居る。このテニスコートの存在に気付いたのは青学へ来て三日目の事だった。

 父親がテニス道楽者である事は充分過ぎる程知って居たけれど、まさか青学の邸宅にすらコートを作っているとは想像して居なかったからだ。けれどまあ、在るに越した事は無い。なんて云ったって剣術や武官の勉強をして居る時よりも、ラケットを握って黄色い球を追いかける時間の方が充実して居ると思う位にはリョーマ自身もテニスが好きなのだから。

 そんな訳でこの家に越してから此方、リョーマは暇を見つけては庭のコートでラケットを振って過ごして居た。もっともこの家には対戦出来る相手が居ないから、大半の時間は屋敷の壁に向かってひとりで練習して居るのだけれど。
 そして今日も今日とて朝食を終えてから日が高くなりなまえに声を掛けられるまで、リョーマは庭で汗を流すのだった。

「坊っちゃん!……そろそろ休まれませんか?」

 いつの間にかなまえがコートの傍に建てられて居る東屋の机に飲み物やタオルを用意して居る。丁度一息着いた頃だったので云われた通り屋根の下に入り、グラスを一気に煽った。リョーマお気に入りの炭酸飲料ではなく麦茶だったけれど、カラカラに乾いた喉には丁度良い。

「坊ちゃんは本当に庭球がお好きですね」

 空になったグラスに再び麦茶を注ぎながらリョーマを見下ろすなまえは、相変わらずニコニコと楽しそうにして居る。“テーキュー”などと謂う聞き慣れ無い単語に一瞬頭を捻ったが、直ぐにテニスの事かと自答した。本当に、我が祖国ながらよくもまあこんなにも独特の言葉や風習が溢れているものだ。なんてひとりごちながらリョーマは再びコートに足を踏み入れる為に立ち上がった。けれど自分のラケットを手に取ったところでやはり対戦相手が欲しくなり、そして机上を片付けるなまえが目に入る。

「ねぇ」
「はい、なんでございましょう?」
「ちょっと付き合ってよ」

 なんの事かと問いかける様に首を傾げる彼女を他所に、リョーマは鞄から予備のラケットを取り出した。
 それを差し出された処で漸くなまえは理解した様で、一歩下がっておろおろと両手を身体の前に突き出す。

「わ、私がですか?」
「他にこの場に誰か居る?」
「しかし……」
「なに?」
「やった事がありませんから、坊ちゃんの足を引っ張るだけになると思いますよ」
「ボールをこいつに当てて返してくれれば良い。別にちゃんとした試合なんて期待してない」

 ほら、と半ば無理やりラケットを押し付けると、渋々ながらもなまえはコートへ入った。
 まずはリョーマからのサーブだ。極々軽めに球を打つと、慌てたなまえが数歩後ろに下がり、たどたどしくラケットを振った。球はひょろひょろの軌道を描きながらもなんとかリョーマの元へ帰って来る。

「やるじゃん」

 今度も比較的緩やかに球を打って、再びなまえの元へ送ってやる。やはり素人の打つ球でも、物理的な反射で返ってくる物よりはずっと良い。
 それから二人はままごとのようなリレーをしばらく繰り返した。
 簡素な着物に腰巻エプロンと謂うなまえの出で立ちは、リョーマからしたら随分動き辛そうだけれど、それでも彼女は不思議な程普段からせかせかと動き回っているのだ。だからゆっくりやればテニスも出来ると思って居たら、案の定だった。加えて、彼女はいっぱいいっぱいいですとでも云いたげな表情でリョーマの打つ球を追いかけるものだから、それがいじらしくて、ちゃんとした試合とは程遠いようなものでもリョーマは楽しく感じて居た。思って居たよりも、自分は意地悪なのかもしれない。

「ほら、ドンドンいくよ!」

 だから少し調子に乗って仕舞って、それがいけなかったのだと思う。
 ついついラケットを振る手に勢いがついてしまった。球威が強くなり、追いつこうとしたなまえは足をもつれさせて転んでしまったのだ。

「なまえ!?」

 しまったと思う頃にはもう遅くて、ボールはなまえ目掛けて高度を下げて居る。目を瞑り縮こまる彼女に向かって一歩踏み出したところで、

 人影が、彼女の前に飛び出してきた。

「!?」

 その影は握って居たラケットで飛んで来るボールを軽くいなして手中に収めて仕舞った。リョーマはホッと胸を撫で下ろし、改めて影の正体を確認する。この場に居る筈のない人物の登場に、リョーマは自分の目を疑う事しか出来なかった。

「腕なまったんじゃねーの、チビ助?」
「……なんでアンタがここに?」

 それは海の向こうに残して来た筈の兄・リョーガだったのだ。怪訝に尋ねるリョーマを尻目に、リョーガは未だ座り込んだ侭のなまえに手を差し伸べる。
 手を取り立ち上がったなまえはリョーガよりも背が低く、ぼーっと彼を見上げて居た。
 思わず眉に皺が寄る。何、その顔。なんでソイツに、そんな顔。

「お前の様子が気になって会いに来てやったんだよ。寂しがってんじゃねーかと思ってさ」
「別に、思い出しもしなかったけど」
「照れなくても良いんだぜ」
「照れて無いし」

 憎まれ口を叩きながら、リョーマはネットを跳び越えて二人の元へ向かう。なまえが戸惑いの表情を良い加減引っ込めないのも気になったが、それ以上に二人がまだ手を握り合っているのが面白くなかった。どうせリョーガは役得だとでも思っているのだろう。全く、我が兄ながらこの男の女好きには呆れる……。
 リョーマの視線に込められた非難に気付いたのか、なまえが慌ててリョーガの手を離す。そして、

「御迷惑をお掛けして申し訳御座いませんでした。それで、あの……」

 彼女はおずおずと続けた。

「あの、リョーマ坊ちゃんのお客様でしょうか?」

 御学友、では、なさそうですし……。と躊躇いがちになまえはリョーマに視線を向ける。確かに、明らかに年の離れた容貌の二人は同級生には見えないだろう。しかしそれでなくともリョーマはなまえの発言に虚を突かれて居た。三代続けてこの家に仕えて居ると豪語して居た彼女が、越前の家の者を知らないだなんて。

「アンタがなまえだな。親父から話は聞いてるぜ」

 しかしリョーガは驚く様子もなく、相変わらず気障な調子(少なくともリョーマにはそう見えた)で続ける。

「俺は越前リョーガ。コイツの……リョーマの兄だ。生まれてからずっと向こうで暮らしてこの国に来るのは初めてだから、知らないのも無理はねーぜ」
「坊ちゃんの、お兄様……」

 呆然とそう呟いた後、なまえはハッと息を飲んで勢い良く腰を曲げる。

「そうとは知らずにとんだご無礼を致しましたわ!」
「気にすんなって」
「長旅でお疲れでしょう? すぐにお茶を用意致します」
「お、助かるぜ。俺の荷物は玄関に置いて在るから、それも頼む」
「承知致しました」

 そしてなまえはぱたぱたと小走りに屋敷の中へ入って行ったのだった。
 残されたリョーマはふと、自身の兄から注がれる視線に気付く。嫌々応える様にそちらを見ると、案の定笑いを我慢する様な、けれど我慢し切れずに少し漏れて仕舞って居る様な顔でリョーガがこちらを見て居た。

「……なに?」
「お前が他人にテニスを教えるなんて、珍しいじゃねーの」
「別に。他に相手も居なかったから、暇潰し」
「暇潰し、ねえ……」

 兄の声色に不自然な含みを感じる。
 なんだかそれが、リョーマには面白くなかった。

******

 リョーマ達が連れ立って屋敷へ入る頃にはリョーガの荷物は玄関から消えており、応接室の扉が二人を待つようにして開かれて居た。誘われるまま中に入り、上質なソファに座る。この家に来てから客人を迎えるなんて事は無かったので、このソファにも初めて座った。
 暫くしない内になまえが飲み物と茶菓子を持って現れる。そしてリョーガの前に湯呑みを置き、リョーマの前には彼の好きな炭酸飲料の入ったグラスを置いた。

「リョーガ様の好みを存じ上げませんでしたので、お口に合うかどうかは分かりませんが……」
「お、日本茶か! 好きだぜ。船の上ではコーヒーしか出なくて飽き飽きしてたんだ」

 リョーガは茶を一口飲んでから、大袈裟に美味いと賞賛する。なまえは目に見えて胸を撫で下ろした。

「それでは、何か御座いましたらいつでもお呼びくださいませ」
「え、なまえどっか行っちゃうの?」
「いいえ、部屋の外におりますよ」
「じゃあここに居ろって」
「しかし、兄弟水入らずの方がよろしいでしょうし……」
「良いから良いから!」

 戸惑いながら食い下がるなまえを、リョーガがあっと言う間に云い包めて隣に座らせてしまった。

「いやー、しかし親父から年の近い女中が居るって聞いてたけど、まさかこんな美人だとは思わなかったぜ」
「美人だなんて、そんな……」

 否定するなまえも満更では無い様で、困まり顔で下げる眉の下で目元から頰にかけてが赤く上気して居た。
 そんな二人の様子を、リョーマは不機嫌に向かい側から眺めて居る。目の前で繰り広げられる茶番が気に食わない。あれだけ歯の浮く様な台詞を恥ずかしげも無く言える兄貴も兄貴だが、明らかに女慣れした風貌のリョーガにいとも容易く翻弄されてしまうなまえもなまえだ。

 俺の前では、無駄に年上ぶっている癖に。
 いざ余裕のない彼女を見ると、ざまあみろと言う気持ちは全く無くてむしろ苛立ちは積もるばかり。

「……で?」

 二人に割って入る様にリョーマは遂に口を開いた。

「兄貴はいつまでここに居るわけ?」
「いつまでって……そりゃあ、」

 言葉の裏に早く帰れと言うメッセージが込められて居る事に気付いて居るのか居ないのか、リョーガはあっけらかんとして居る。

「暫くは居るぜ。だいたい、ここは俺の家でもあるんだからな」

 彼の言葉を受け、リョーマは目眩がする様だった。この兄は父親譲りの飄々とした人間で、それだけならまだしも、リョーマを揶揄って遊ぶ事を趣味にして居る様な男なのだ。ここ数年は軍の宿舎に移り住んで居たから平穏な日々を過ごしていたのに、今度は二人きりで暮らすなんて……考えただけでも面倒臭い。

「まぁ、素敵ですね!」

 そんなリョーマの憂鬱を他所に、なまえは両手を打って笑みを浮かべた。

「だろ? お袋も流石にチビ助を一人にしたのが心配だったみたいで、よく面倒を見てくれって頼まれたんだよ」
「左様でございましたか! 後ほど、リョーガ様がお過ごしになるお部屋を案内いたします。ご入用であればなんなりとお申し付けくださいね」
「それって夜の添い寝とかも?」

 “添い寝”と云う単語でなまえは再び恥ずかしそうに頬を赤らめて俯いた。また始まったか、とリョーマは苛立って、その勢いの侭立ち上がる事にする。

「坊ちゃん……?」

 リョーガの隣に腰掛けたまま、なまえが首を傾げてリョーマを見上げた。その姿にでさえ、今は神経を逆撫でされる様だ。

「部屋で休む」
「後ほど何かお持ち致しましょうか?」
「いらない。寝るから暫く入って来ないで」
「……畏まりました」

 心なしか沈んだなまえの声を背中に受け、リョーマは自室へ戻る。ベッドに飛び乗り顔を枕に埋めると、リョーガの言葉で恥じらいを見せるなまえの姿を何故か思い出して、そしてやはり理由も無いのにどうしようもなく苛立って仕舞うのだった。







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