リョーガが青学の越前邸に現れてから三日が経った。
 学校への編入が控えているリョーマとは違い本来彼は軍人――宿舎に身を寄せて集団で生活をしなければならない身だ。それなのに、彼は毎日朝からフラフラと遊び歩いてはそれぞれ違った時間に帰って来る生活を続けて居る。

 そして、今日。
 庭でテニスをしながら時間を潰すリョーマの前に、何処かから帰ってきたリョーガは一通の白い封筒を差し出したのだった。
 中の書面に目を通し、リョーマは眉を寄せる。

「舞踏会の招待状?」
「そう! お前もそろそろこういうのに顔出しとけってさ」

 東屋の机に手紙を投げ捨て訝しげに兄を見上げるリョーマに、リョーガは説明を続けた。それに寄ると、どうやら近々父親の知り合いが娘の誕生日パーティを開くらしいのだ。

「行かない。興味ない」
「父親の面目を潰すのかよ?」
「アニキだけで行けば良いじゃん」

 実を言うと、リョーマがこの手のパーティに参加するのはこれが初めての事ではなかった。直接の招待ではないものの、外交武官の父親の付き添いという形で向こうに住んで居た頃はよく駆り出されて居たものだ。しかしそこでリョーマが学んだのは、どれだけパーティと謂うものが詰まらないかと言う事だけだった。興味の無い話に延々と付き合わなければいけないし、少ししくじっただけで瞬く間に悪い評判が広がる。面倒臭い事この上無い。
 しかも今回は舞踏会とわざわざ銘打っているではないか。尚更御免だ。だって。

「俺、踊れないし」

 ふてぶてしいまでにはっきりとそう言ってのける弟に、リョーガは目をぱちくりとさせた。確かに今までリョーマがパーティで踊っている姿なんて見た事が無かったけれど、ダンスは上流社会の必須科目のようなものだし、単に嫌っているだけだと思っていたのに、まさか本当に踊れなかったとは。しかもその事に何の焦りも必要性も感じていないなんて……大物にも程が有る。そう思ったら、リョーガは口から零れる笑いを止められなかった。

「カッカッカッ! 駄目だぜリョーマ。ダンスが出来ないのは紳士の名折れだ」
「紳士じゃなくても俺は構わない」
「そうだ、兄ちゃんが教えてやるよ」
「は? 別にいらな、」
「ほら、行くぜ!」
「あ、ちょっと!?」

 リョーガはリョーマの腕を引っ張って椅子から立たせると、背中を押して有無を言わせず屋敷の中へ連れ戻してしまった。「止めろよ!」と必死で訴えるリョーマを丸切り無視して向かった先は食堂だ。食事用のテーブルを壁際までずらせば、ダンスに必要な空間が充分に確保出来る。そして一番重要なもうひとつの事……。

「おーい、なまえ!」

 キッチンにいる事の多いなまえを呼び出すには、ここが一番便利なのだ。

「はーい、只今参り……って、いかがなされたのですか?」

 なまえは食堂に入るなり、片付けられてしまった机に目を見張った。

「なまえ、ワルツは踊れるか?」
「女学校で少しだけ学びました。けど……」

 首を傾げつつも素直に答える彼女に、リョーガは満足そうに頷いた。

「じゃあ大丈夫だな。リョーマに教えるから、手本の相手になってくれ」
「私が、ですか?」
「そ、相手が男なんて俺もエスコートし甲斐がないだろ?」

 リョーガは勝手知ったる顔で部屋の横隅にある蓄音機を操作し、レコード盤に針を乗せる。リョーマも何度かパーティで聞いた事が有るような無いような、曖昧な記憶の片隅に引っかかるクラシック曲が流れ始めた。

「ちょっと失礼するぜ」
「きゃっ!?」

 そしてリョーガはなまえに近付いたかと思うと、左手で彼女の手を取り、右手を腰より少し上の位置に添えてぐっと引き寄せたのだ。二人の距離が近くなり、なまえは恥かしそうに俯いている。
 まただ。リョーマは自身の眉間に皺が寄るのを自覚した。またイライラしている。きっと兄の軟派な処を目の当たりにしたからだ。

 荒れるリョーマの心情を他所に、リョーガとなまえは軽やかにステップを踏み始めた。向こうの国でも随分遊んで居たリョーガは元より、なまえも少しだけと云っていたわりになんだかんだで様になっている。二人はあっという間一曲踊り終え、その場に立ち止まった。

「少しって云ってた割には上手いじゃねーの」
「ありがとうございます。久しぶりだったのでとても緊張しました」

 お相手がリョーガ様でしたし、となまえは続ける。息は弾み、頬は上気していた。

「ま、これだけ踊れれば問題ないな。じゃあなまえ、そこでふてくされてる弟の事は任せたぜ」
「任せたって、リョーガ様!?」
「そいつ三日後に舞踏会に出るから、それまでによろしくなー」

 俺はちょっと用事があるから、と続けて、リョーガは返事も聞かずに食堂を出て行って仕舞った。すぐに外でエンジン音が聞こえる。一昨日リョーガが何処かから手に入れて来た自動車の音だ。

「……行って仕舞われたわ」

 呆然と呟くなまえを他所に、リョーマはこれ幸いとラケットを手にする。漸く五月蝿いのが居なくなった。

「じゃ、俺は庭に戻るから」
「えっ、でも坊ちゃん、練習は?」
「やらなくて良いよ。アイツが勝手に騒いでただけだし」
「そうはいきません。坊ちゃんがパーティで女性をエスコート出来ないとなったら越前家の名折れです。それに、私はリョーガ様に頼まれたのですから」

 腰に手を当て、なまえは厳しい調子でリョーマに食い下がった。先ほどリョーガに見せた塩らしい態度とは打って変わった様子にリョーマの不満はついに爆発してしまいそうだった。

「なまえの主人は誰?」
「それは勿論リョーマ坊ちゃんです」
「じゃあ兄貴じゃなくて、俺の言う事聞けば良いじゃん」
「リョーガ様だって、私がお仕えする越前家のお方ですもの」
「リョーガ様リョーガ様って、その呼び方もなんなんだよ」
「呼び方?」
「なんでアイツはリョーガ“様”で、俺は“坊ちゃん”なわけ? なまえは俺にばっか偉そうだし、子供扱いすんなよ!」

 云い切ってから、はっと我に返る。脳に昇った血が一気に下がり、その分顔を熱くした。
 最低だ。こんな形で、自分の苛立ちの正体を知るなんて。

「坊ちゃん……もしかして、やきもちを妬いていらっしゃったのですか?」

 なまえが目をぱちくりと瞬かせ、尋ねる。リョーマは消えてしまいたいくらいの羞恥心に耐えながら「そんなんじゃ、ない」と漸くの思いで返した。

「心配なさらなくても、誰も坊ちゃんからお兄さんを取ったりしません」
「だから、そんなんじゃないって」
「なまえめの一番もリョーマ坊ちゃんですよ」
「…………本当に?」

 思わず出た言葉に、なまえはにっこりと笑って肯定する。そして周りに誰もいない事を確かめてからこっそり耳打ちした。

「お兄様の事をリョーガ様とお呼びするのは、実はまだお客様扱いしてしまうからなんです。ちょっと緊張してしまって」

 なまえは眉を下げて苦笑いをしていた。

「坊ちゃんは坊ちゃんですわ。私の特別な方です」

 “特別な方”――そこまで謂れて、機嫌の治らない人間が居たら見てみたい。
 リョーマは誰にでもなく言い訳するように考えた。そうだ、これは単に耳障りの良い言葉を聞いたからで、別になまえだからとか、そう言う事では無いのだ。

「……分かった。やれば良いんでしょ?」
「坊ちゃん……!」

 ダンスの練習だって、これ以上抵抗しても意味が無さそうだから仕方無くするだけで、別に云う通りにすればなまえが喜ぶからだとかではない。 決して、そんな訳では無いのだ。

******

「ますは相手の女性が決まったら、その方に同伴していただく作法からです」

 手を出して、と云われ、その通りにする。けれど正しい位置ではなかったようで、「この辺りです」と云う言葉と共になまえの両手がリョーマを包んで目線程の高さに修正した。
 その手の小ささと暖かさに改めて驚く。背丈だって向こうの方が高い癖に、手だけはリョーマの方が一回り大きかった。 

「そうされましたら、少しだけ傅いて、“踊って頂けませんか?”と相手の方に尋ねてください。さ、続けて」
「……俺と踊って頂けませんか」

 仰々しい仕草と言葉に反吐が出そうになる。こんな事を、人前でしろだって? この作法を考えた者は正気だったのだろうか。
 けれどなまえは対して嫌がる様子もなく、ニコリと笑って小さな手をリョーマの手の上にそっと乗せた。

「お上手です、坊ちゃん。相手の女性が手を乗せて頭を軽く下げたら了承の合図ですから、坊ちゃんも頷き返して、手を取ったままフロアへ向かいます。腕を組むと教えられる女性もおりますので、拒まないで下さいね」

 冗談じみた言葉尻を添え、なまえはリョーマの腕に自身のそれを絡める。
 着物に隠れていたから今まで気付かなかったけれど、腕も、さりげなく触れる肩も、思っていたよりずっと華奢だった。こんな身体の何処に、毎日洗濯物を持ち上げたり、リョーマの荷物を運ぶ力があるのだろうと不思議に思う。
 そのままなまえはリョーマの右手を自身の腰の辺りに導き、左手を取って肩の上の方で停止させた。

「これが始まりの構えです。曲が始まりましたらステップを踏みますので、言う通りに動かして下さいましね」

 右、左、右、前に後ろと、云われる侭に足を動かす。ワンパターンの動きは決して難しくなく、あっという間に覚えてしまった。
 一通りの動きを終え、ふたりはその場に立ち止まる。最後に相手から離れる時の作法を説明して、なまえはリョーマの手の上から自身のそれを下ろした。

「練習なのですから、緊張なさらなくとも良いのですよ。坊ちゃんが相手をしていらっしゃるのは坊ちゃんの大切なお嬢様ではなく、ただのなまえです」

 リョーマの身体に力が入って居る事なんて如何やって気付いたのか、なまえはふわりと笑って云った。コロコロと表情を変えたり、無邪気にリョーマを慕ったりと常に子供のような振る舞いをしている癖に、時々こうして滲み出る余裕にどうしてもなまえは大人だと謂う事を思い出さざるを得ない。それがとても癪で、悔しく、リョーマは奥歯を噛み締める。

 「……にゃろう」

 けれどなまえはそんなリョーマの様子に気付く素振りもなく、蓄音機を操作して再びあの眠くなりそうな音楽を流した。

「次は音楽に合わせて練習しましょう。少し早くなりますから、お気をつけて」

 再びなまえが正面に来て、初めのポーズをリョーマに促す。右手をなまえの腰に添えると、硬い帯の生地が手のひらに感じられた。
 音楽に合わせ、先ほど教えられた動きを繰り返す。始める前は面倒で仕方なかったダンスレッスンも慣れればどうと言う事はなかった。むしろ常にぴったりとリョーマのステップに寄り添っているなまえの足を踏まないように気をつけなければならないのはゲームのようで、その点に於いてだけは楽しさすら感じられる。

「お上手です、リョーマ坊ちゃん!」

 それに何より、なまえが本当に誇らしげに褒めるから。
 子供にかけるような大袈裟な褒め言葉はくすぐったくて居心地が悪くなるから止めてくれと云いたいのに、言葉が出て来ない。だって褒められるのが照れ臭いなんて、それこそ子供っぽい。

「……こんなの簡単じゃん」

 だから代わりに、リョーマは生意気な口を利いてしまう事にしたのだった。

「坊ちゃんの才能ですよ。私なんて先生の足を踏まずに踊れるようになるまで、一週間もかかりましたもの」
「それ、なまえが特別下手だっただけじゃないの?」
「あら、今日の坊ちゃんは一段と意地悪です!」

 言葉の割に、なまえは鈴の鳴るような声でころころと笑った。







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