「さて、今日はこれくらいにしておきましょうか」

 その言葉を合図にリョーマはなまえの腰から手を退ける。テニスよりは体力を使わない筈の、しかしテニスよりもよっぽど疲れるレッスンが今日も漸く終わった。

 リョーマがなまえにダンスを教わり初めてから数日が経った。なまえの律儀な性格が災いして練習は毎日行われて居る。どちらかと言うと気疲れで固まってしまった肩に手を添えつつ、リョーマは蓄音機を片付けるなまえに声をかけた。

「着替えたいんだけど」
「かしこまりました。ご用意しますね」

 なまえがいそいそと二階に向かうので、リョーマも後ろを着いて階段を上る。上がってすぐ右手が彼の部屋だ。

「今日は洋装と和装のどちらになさいますか?」
「和服が良い。カーキのやつが着たい」

 指定だけして腕を広げていたら、何時の間にか支度が終わっている――そんなルーティーンにも、もう慣れたものだった。……とは云っても、動く必要がないので慣れたも何もないのだけれど。
 しかし、今日はいつまで待っても肩に掛かる服の感覚が訪れない。代わりになまえは困ったように首を傾げていた。

「柿色の服はご用意がございませんが……」

 彼女の言葉を聞いて納得する。どうやら無意識にまた英語を使っていたようだ。
 当たり前の事なのかもしれないか、この国ではリョーマの居た国の言葉があまり浸透していないみたいで、時々こうして会話が噛み合わなくなるのだ。

「あーっと、茶色っぽいやつ、着たい」

 改めて言い換えると、なまえは茶色、茶色、と繰り返しながら、クローゼットの中を覗き込んだ。そして取り出したのは、最初の頃にリョーマの丈まで繕ってくれた服だった。これで間違いないか、とでも問いたげな瞳をしているので、正解と言う意図を込めてひとつ頷く。するとなまえは目に見えて安堵し、それをリョーマに着せながら「柿の葉みたいなかーき色、リョーマ坊ちゃんの好きな色」と歌うような声で呟いた。

「俺が好きなのはシルバーだけどね」
「しるば……?」
「銀色ってコト」
「銀色がお好きなのですね! でしたら、こっちに羽織紐が……」

 なまえは再びクロゼットの中に顔を突っ込み、あれは何処だったかしら等と独り言を云いながら色々な物を取り出しては仕舞ってを繰り返して居る。
 暫くして漸く目当ての物が見つかったのか、なまえはリョーマが肩に掛けっ放しだった和服に手を伸ばした。

「お待たせ致しました。今、着せて差し上げますね」

 リョーマは欠伸をひとつしながら腕を軽く広げ、後は全てなまえに任せる事にした。本当は部屋着すら自分で着られないのは子供っぽくて癪に触るけれど、だからと云って慣れない服にもたもたして居たら余計なまえに笑われるだけだ。だったらシャツにすれば良いのも事実だけど、この国の気候にはこの国の服装が合って居るのだから、仕方無い。

「はい、出来ましたよ」

 それにこうして毎回着付けを終えたなまえがリョーマの仕上がりを見て満足そうに鼻を膨らませるのだから、微笑ましくて。こんな表情が見られるなら子供っぽく甘えて“あげる”のも悪くは無いのではと言う気持ちにさせるのだった。

「坊ちゃんは旦那様によく似てらっしゃるから、和服もお似合いですね」

 けれど今日のなまえからは余計な言葉がひとつ。
 その一言を聞いた途端、リョーマは唇が尖るのを自覚した。

 リョーマにとって南次郎と言う人物は父親であり、師だ。越前の名を背負っていつかは軍に入る者として幼い頃から剣術や駐在武官としてのいろはを教わって来たばかりではなく、リョーマにテニスの楽しさを教えたのも南次郎で、そう云った意味では尊敬して居る。
 けれど私生活での飄々とした言動は疲れるやらうんざりするやらで、その上に何かにつけてリョーマを揶揄うのが趣味だとしか思えない言動は煩わしい以外のなんでもない。それこそ、揶揄われて居る瞬間だけは上記の尊敬が揺らぎそうになる程には。

 自分が、そんな親父に似てる?
 テニスコートの外で言われるのと笑えない。だいたい、リョーマは顔立ちだって母親似だ。

「どうかなさいましたか?」

 リョーマの眉間に皺が寄った事に気付いたのか、なまえは目をぱちくりとさせた。本当はこのまま不機嫌を前面に出してしまいたいけれど、感情に任せて思いの丈を語ってしまうのも負けな気がして、結局リョーマは「別に」とだけ答える。

 そして、唐突に思い出した。
 そう云えば今身に纏っているこの服だって、親父のお下がりではないか。

 実に面白く無い。

「ねえ」
「なんでございましょう?」
「……そろそろ自分のキモノも、欲しいんだけど」

 親父と張り合う気持ちを抑えつつ告げると、途端になまえは瞳を輝かせた。

「買いに行きましょう。今から!」
「え、今から!?」
「坊ちゃんさえよろしければ、時間はありますわ!」

 確かに学校が始まるまでは毎日が休みのようなものだし、今日は個人的な用事もない。けれど些か急過ぎやしないだろうか。
 戸惑うリョーマを他所に、なまえはいそいそと外出用の袴を取り出してリョーマに着せようとしている。

「ちょ、ちょっと待ってよっ! そんないきなり言われても!」
「お嫌ですか?」
「嫌では、ないけど……」
「それでは是非とも行きましょう!」

 曖昧に答えたが最後、あれよあれよと言う間に気が付いたら人力車に乗せられているではないか。こんな強引な彼女の姿は見た事がなかったし、想像すらしていなかった。

******

「こちらで御座いますわ、坊ちゃん!」

 そしてリョーマが連れて来られたのは百貨店の中にある布屋だった。リョーマには特に懇意にしている服屋などないので、案内をなまえに一任したのだ。
 店内を一瞥して、リョーマは頭に疑問を浮かべる。店内にあるのは巻物のように陳列されたの反物ばかりで、服なんて何処にも見当たらない。けれどなまえは正にその布の山を指して「お好きな色や柄は御座いますか?」とリョーマに問いかけた。彼女の目線は布を見つめたまま、宝石を眺める少女のように瞳を輝かせている。その様子が一寸微笑ましくて、リョーマは自分の口角が僅かに上るのを自覚した。

「随分楽しそうだね」
「それはもう! だって坊ちゃんが初めて自分から欲しい物をおっしゃってくださったんですもの」

 眩しいくらいの笑顔で続けたなまえに、今度は拍子抜けしてしまった。そんな理由でここまでご機嫌になれると云うのか。

 俺がおねだりしたから、なまえは嬉しい?

 自分の言葉にしてみると妙にそわそわと落ち着かなくなった。けれど反物に夢中のなまえはリョーマの些細な変化に気付いておらず、これ幸いと胸を撫で下ろす。

「気になる反物があればおしゃってくださいましね」
「どれでも良い。なまえが選んで」

 さあさあ早く選んでおくれ、とでも訴えているような態度の彼女に向かっていつも以上にそっけない声色で伝える。するとなまえは笑顔から一転、困惑の表情を浮かべた。

「折角坊ちゃんの為のお着物ですのに、よろしいのですか?」
「俺は着られればそれで良いから」
「……本当に?」
「本当」

 おずおずとした態度は一瞬で霧散し、それならばとなまえは再び瞳を輝かせた。坊ちゃんの肌に似合う色は、だとか、室内で着る方が多くなるだろうから素材がどうだとか、矢継ぎ早に並べ立てては店員が持って来る巻布をリョーマに宛てて、あれやこれやと更に注文を追加する。そしてリョーマがその素早さに戸惑って居る間に布を二巻き店員に渡してしまったのだった。
 にこやかに値段を告げる店員になまえは懐から財布を取り出す。越前家の生活費を賄う為の財布にしては随分と軽そうな見た目のそれに、リョーマ疑問の声を上げた。

「ええ、これはわたくし個人のですわ」
「何で?」
「買い物にお誘いしたのはわたくしですもの」

 旦那様からちゃんとお賃金は頂いておりますから、ご安心下さいな。としれっと答えるなまえの、手に持った財布をリョーマは掴んで下げさせた。

「だめ。俺が出す」
「でも……」
「俺の服だし、欲しいって最初に云ったのも俺」

 なまえはまだ何か云いたそうな顔だったけれど、駄目押しでまっすぐ見上げると意外にもすんなり引き下がってくれた。今度はリョーマが自身の財布を取り出す。貨幣の種類は先日嫌と言うほど教えてもらったので、あたふたする事もない。リョーマは膨れ上がった財布からぴったりの貨幣を取り出し、内心得意げに店員に渡した。

「仕立てはどうされますか?」

と店員がリョーマに向かって尋ねる。店で仕立てるのであれば今から採寸をし、後日取りに来なければならないらしい。だから店に並べられているのは布ばかりなのかと頭の中で納得しつつ、店員の勧める通りで良いとリョーマが頷こうとしたその時、

「あの、」

 なまえがリョーマを呼び止めたのだ。次の言葉を待つけれど、なまえはもじもじするばかりで一向に何も云わない。こんななまえは初めてだった。

「なに?」

 辛抱出来ずにリョーマはなまえを促す。なまえは視線を泳がせた後、観念したように口を開いた。

「……坊ちゃんさえ良ければ、わたくしに繕わせて頂けませんか? ぼっちゃんの採寸を把握しておりますし、煩わせずに済みます。店ほど上等に仕立てられる自信はございませんが、裁縫は女学校で習って参りましたし……」

 頰を赤らめて捲し立てるなまえの姿は、恥じらう乙女に他ならなかった。
 彼女の恥じらうポイントが分からない、と困惑しながらも、リョーマは店員に仕立てずそのまま買って帰ると告げる。なまえが仕立てたいと云うのであればその通りにさせてやりたかった。リョーマは新しい服さえ手に入ればそれで良かったのだから。

 目当ての物が手に入り、二人は連れ立って店を後にする。リョーマの半歩後ろで反物を二巻き抱えるなまえは顔一杯に喜色を浮かべ、今にも踊り出しそうな足取りだ。
 ふと、そんな彼女が足を止めたのは、とあるショウウィンドウの前だった。硝子を隔てた向こう側でマネキンが西洋風のドレスを身につけている。

「簡単服は煌びやかでとても綺麗ですねえ」

 ドレスを見上げてしみじみと感嘆の息を吐くなまえの様子を見て、リョーマはしばし考える。そして何も言わずに店の中へ入ると、店員を呼び止めたのだった。

「あっちに飾ってある服、包んで」

 礼を述べてから支度をする店員を待っている間、後ろを着いて来ていたなまえは他人事だとでも云うように微笑んでリョーマに声をかけた。

「あら、どなたかへの贈り物ですか?」

 大方意中の少女への贈り物だとでも思っているのだろう、その声には少し揶揄いが含まれていた。これから言う言葉を聞けばなまえもそんな余裕のある表情が出来なくなるだろうと思うと、リョーマは既にしてやったりと口角を上げざるを得なかった。

「うん、アンタに」
「アンタ様へ……って、え?」
「だから、アンタ。なまえにあげる」
「わ、わたくしに!?」

 案の定、なまえは慌てふためいた。首どころか両手まで左右に振って、全身で遠慮の姿勢を貫いている。

「あんな高価なお品物、とても頂けません!」
「良いから」
「良くありませんわ!」
「なまえは俺がして欲しい事をしたいんでしょ?」

 戸惑いがちになまえが頷いた。

「俺はなまえにあの服を着て欲しい。だめ?」
「……だめじゃ、ない、です」

 上目遣いでそう尋ねてしまえばなまえが拒否しないなんて事、もうとうの昔に承知していて。リョーマは自分でも少々ずる賢かっただろうかと思ったけれど、なまえを頷かせる事が出来たのだから仕方ない。

 数分後、二人は再び店の外に居た。しかし今度はリョーマが自身の為の反物の包みを持ち、なまえはと云うと、顔を僅かに赤らめながら、自身が先ほど綺麗だと息を吐いたドレスの包みをその腕に抱えていたのだった。







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