「昼食を済まされましたら、最後の練習をしましょう」

 そう提案されたのは、なまえが昼食を運んで来た時の事だった。提案とは云っても、なんだかんだでリョーマに拒否権は無い。何せリョーガに舞踏会の話を持ちかけられてから毎日、二人はダンスの練習に励んで居るのだから。
 でもそんな日々も今日で最後だ。なんと云っても本番である舞踏会は今夜行われる。今夜を乗り越えたらもうこんな事しなくて済むのだ。

 だからリョーマは項垂れつつも一旦自身の部屋に戻り、一息ついてから再び食堂へ戻った。大きなテーブルを部屋の端に寄せるのはリョーマの役割だ。最初の内はなまえがやると云って聞かなかったが、「力仕事だし、流石に俺がやる」と云って突っぱねた。練習を開始してから二日目の話である。

 いつもならなまえは先に到着し、蓄音機の準備をしている筈だ。なのに今日は人影すらも見られない。何処かでまたレッスンに使う物でも引っ張り出して来ているのかと、リョーマが玄関ホールに出た、その時。

「――待たせいたしました、坊ちゃん」

 階段の上から、なまえがリョーマに呼びかけた。
 見上げた瞬間、リョーマは息を呑む。彼女は昨日買い与えたドレスを身に纏って居た。
 キモノでないなまえを見るのは初めてだ。装いに合わせて髪型も変えている。階段を降りて距離が近付いてから気付いたが、どうやら少し化粧もしているようだ。

「舞踏会は今夜ですから、少しでも本番に近付けるように私も簡単服を着てみました……坊ちゃん?」
「……え? ああ、うん」
「どこか、可笑しいでしょうか?……もしかして、着方を間違えておりますか!?」

 このような服は制服以来ですから、なんて呟きながらなまえは慌ててきょろきょろと全身を見回している。
 そんな事はない。別段変に着ているわけではないし、寧ろとても似合っていて、綺麗だ。…………綺麗だ?
 ハッと我に返って、それからなまえの顔がまともに見られなくなった。なんだか様子がおかしい。誰かを綺麗だなんて態々思う感情、自分にも有ったのか。

「坊ちゃん、もしかして何処か具合でもお悪いのですか!?」

 今度のなまえは慌ててリョーマに近寄り、リョーマの額に手を当てて熱を測り始めた。ふわり。ドレスの袖が作る風に乗って、おしろいの甘い匂いが鼻を掠める。リョーマは思わずなまえの手を振り払った。

「別に、問題無い。考え事してただけ」
「考え事?」
「何て言うんだっけ……そう、馬子にも衣装」

 都合良く浮かんだ言葉をそのまま伝える。なまえは少し頰を膨らませて「まあ、また意地悪をおっしゃるのですね!」と云った後で、屈託無く笑った。その笑顔があまりにもいつも通りで、リョーマは思わずほっと一息ついた。
 そう、そうだ。馬子にも衣装だ。いつもと違うなまえを見て、それが別段悪く無い出来だったから驚いただけ。そうに決まって居る。

「それだけ口がお立ちなら問題はございませんね。では、今日の練習を始めましょう」

 今日は本番さながらですよ、と宣言してなまえは蓄音機の針を落とす。暫くしない内に音楽が流れ始めた。

「ほら坊ちゃん、お誘いの言葉を」

 なまえは部屋の隅に移動し、リョーマを促した。壁際の花にでも成ったつもりなのだろうか。リョーマはそんな彼女の前に立ち、掌を上にして差し出す。

「〝俺と踊っていただけませんか?〟」
「〝喜んで〟」

 教えられた科白を云えば、教わった通りの科白で返して来る。差し出した手の上に乗せられたなまえの手でさえ手本通りの筈なのに、今日はいつもより冷たく感じた。腕を組むと、今日はぴったりとした袖である分距離が近い気がする。部屋の中央に移動して最初のポーズを取った。なまえの腰に手を添える。帯の感触がなく、柔らかい。
 社交の場では男性は女性を先導していくものだ、と謂う事は初日から何度も教えられてきた。その甲斐あってリョーマは自ずと最初のステップを踏み出していた。今では踊りも身体に染み付いて居る。
 普段なら踊りながら『顔が近付きますから、相手のお嬢様の素敵な所を小さな声で褒めて差し上げると心を掴む事が出来ますよ』等と云った要らぬアドバイスをしてくるなまえなのだが、此処でも〝本番さながら〟を貫いて居るのか、下を向いて何も話さない。

……折角だからその要らぬアドバイスも実践してみようか。本番さながらなのだし。

「なまえ」
「はい、リョーマ坊ちゃん」

 なまえが顔を上げ、リョーマの目をじぃ、と見つめた。褒めるなら、今だ。彼女の耳に口を寄せて、何か云えば良い。

 例えば『その服、良く似合ってる』とか。
 若くは『すごく綺麗だけど、化粧も俺の為なの?』だとか。
 頭の中ではいくらでも思いつくのに。

「…………なんでもない」

 口をついて出て来たのは、我ながらなんとも情けない言葉で。

「本当に?」
「本当」

 体調が優れないのではないかと心配そうに質問を重ねるなまえの顔が見れず、ぶっきらぼうに短い言葉を放つしかなくて。云いたい事を我慢した事なんてなかったのに、自分は一体如何してしまったのだろう。
 自分自身の変化に困惑している内に、なまえは何か悟ったのかのように「ふふ」と吐息だけで笑う。

「連日の練習でお疲れになりましたのでしょう? この曲が終わりましたら、坊ちゃんの大好きなお飲物を持って来ましょうね」

 なんて的外れな事を云うから、少しだけ、本当にほんの一寸だけ、終わるのが惜しくなったりして。
 だって練習が終わると謂う事は、面倒な舞踏会に行かなければいけないと謂う事だから。なまえが小動物でも見つめるような瞳で此方を見てくるのが今日はそんなに嫌でないのも、舞踏会に行くよりかはましだから。
 そうに決まっている。
 決まっているのだ。

―――― ……。

 練習を一通り終えて休憩を兼ねた自由時間を過ごしていたら、いつの間にか日も沈もうとしていた。リョーマの部屋の扉をなまえがノックし、もう準備をして出掛ける時間だと告げる。了承したらなまえが入室し、リョーマの身支度を始めた。いつもは気にした事もなかった髪を丁寧に撫で付けられ、用意された礼服を身に纏う。親父のお古なのか、それとも何時の間に仕立てたのか、着せられたタキシードはリョーマの身体にぴったりだった。

「装飾品を何か着けて行かれますか?」

 リョーマに蝶ネクタイをつけながらなまえが尋ねる。なまえが作業をし易いように若干顎を上げていたら、何時もは見えないなまえのつむじが見えた。蝶ネクタイを結び終えるとなまえはリョーマから離れ、衣装棚から様々な装飾品を取り出し並べる。懐中時計から胸に挿す為のハンケチまで取り揃えて有るが、それのどれにも目をくれずリョーマは答えた。

「どっちでも良い。テキトーに選んで」

 ちゃんとしなければ怒られるからしているだけで、服装に拘り等無いのだ。
 リョーマの意図を汲み取ったのか否か、なまえは少しだけ目を丸くしてから「かしこまりました」とだけ云った。そして歌うようにひとつひとつ手にとってはリョーマに宛てていく。
 最終的に宛てがわれたのは紺のハンケチだった。何度か折り目を整え、胸元のポケットに差し込まれる。ハンケチに一本だけ入った赤いラインが襟と平行に飾られて居た。

「やはり坊ちゃんにはこの二色が似合いますわ」

 満足そうに頷き、なまえは最後の調整を始めた。礼服の裾を軽く引っ張っては皺を伸ばし、蝶ネクタイを触っては曲がっているかどうか確かめている。忙しく動き回るその手がいつもより小さく見えて、なんだかテニスボールのようで、リョーマは追いかけなくてはいけない気持ちになった。襟元を正すなまえの手を咄嗟に捕まえ、ぎゅ、と胸の前で握りしめる。暖かい筈の室内で彼女の手だけがやけに冷たく感じた。

「坊ちゃん?」

 リョーマの不思議な行動になまえは首を傾げる。何かこの行動を弁解する為の言い訳を用意しなければ、とは思うのだけれど、意に反してなんの言葉も浮かんで来ない。やがてなまえは何かを察したのか、微笑んで、反対の手でリョーマの手を包み込んだ。

「緊張されているのですか? 今日の坊ちゃんは何処か上の空です」

 心配なさらずとも、会場で一番の美丈夫である事間違いなしですよ。
 誇らしさを顔いっぱいに浮かべ、なまえは眩しそうに目を細めてそう続ける。その視線を一身に受けるのがくすぐったくて、でもなんだか嫌ではなかった。
 ふと、屋敷の外からエンジンの音が聞こえた。窓から外を覗いて見ると、丁度リョーガが車を停止させ、家の中に入って来る所だった。

「いけない、お出迎えしなくては」

 それではリョーマ坊ちゃん、準備が出来ましたら玄関へおいでくださいましね。とだけ告げて、なまえは慌てて部屋を出て行ってしまった。
 まだ俺の支度が終わってないのに、兄貴のところに行ってしまうなんて。と少しだけ面白くない思いを抱きつつも、何処かでほっと一息ついている自分もいる。

 気を取り直して全身鏡を見ると、なまえが云っていたような美丈夫には到底思えなかった。こんなに畏まって窮屈な姿で居るよりも、テニスの為の運動服やなまえが縫ってくれた和服でいる方がずっと自分らしく思える。
 そんな事を考えていたら、自分これから何処へ行って何をするのかを改めて思い出してしまった。途端に気分が沈む。出来る事ならこの馬鹿げた礼服を脱いで今すぐ逃げ出してしまいたかったが、あれだけ熱心に選んでくれたなまえの事を思い出すとそれも躊躇われる。仕方無い……と溜息をついて、リョーマは下の階へ向かった。

 玄関先ではなまえが同じような礼服に身を包んだリョーガと楽しげに歓談していた。再びリョーマの中で面白くない気持ちが膨れ上がる。兄貴が鼻の下を伸ばしているのを見るのは苦手だ。自分の知らない所で遊ばれるのが勝手だが、目の前でやられると身内として情けなくなって来る。……その相手がなまえなら、尚更。

「行かないの?」

 だからこそ、リョーマはいつもよりもずっと低いトーンで二人の会話に割って入ることになった。

「お、来たかチビ助」

 しかしリョーガがそんな事気にするはずもなく、カッカッカと笑うばかり。なまえは二人に忘れ物がない事を確かめると玄関の扉を開けた。

「それではリョーガ様、リョーマ坊ちゃん、行ってらっしゃいませ」

 こうしてリョーガの運転する自動車はリョーマを乗せ、越前邸を後にしたのだった。







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