こひしかるべき よはのつきかな


 麻葉はひとり、小川のほとりに佇んでいた。近くの木々がかき分けられる音がすれば、それが彼女に会える合図だ。

「麻葉!」
「なまえっ!」

 麻葉となまえが出会ってから数日が経っていた。あの日を境に2人は毎日川辺で落ち合い、里の子供達が知らないような場所で遊んでいる。草舟を作って浮かべたり、管理する者がいなくなった廃墟でかくれんぼをしたり……ひとりでは今まで出来なかった事も2人なら出来たし、ひとりでやってきた事も2人でやるといっそう楽しかった。万が一里の子に見付かって虐められても、互いが傍にいれば平気だとすら思えた。

「今日は何して遊ぼうか?」

 麻葉が問いかけるとなまえは「えへへー」と含んだ笑いを浮かべる。よく見れば彼女の両腕は何かを隠すように背中に回されていた。

「じゃーん!!」
「おおー!」

 麻葉の反応が待ちきれないとでも言うように差し出されたそれは、鮮やかな刺繍が施された鞠だった。金持ちは〝蹴鞠〟等と言う遊びをしていると聞いた事があるけれど、本物の鞠を見るのは始めてだ。
 瞬間、いやな考えが麻葉の頭をよぎる。貴族でもなければ豪農の娘でもないなまえが、一体どうやってこれを手に入れたというのか。まさか――

「……盗んだのか?」
「ちっがーーーう!!!」

 かあさまに頂いたの! となまえは声を荒げて続けた。頬をちょうちんのように膨らませたまま、唇を尖らせて器用に話し始める。なんでも彼女の母親に惚れ込んだ男のひとりが、贈り物として持って来たのだとか。

「お友達が出来たって言ったら、かあさまが『自分だと飾っておくしか出来ないから』って言って下さったの」

 ね、今日はこれで遊ぼう!
 彼女の提案に、麻葉が反対する理由などどこにもなかった。

 一蹴り目で鞠を受けて、二蹴り目で頭上に上げた後、三蹴り目で相手へ渡す……男が得意げに話していたのを盗み聞いていたなまえの説明を聞いた時は簡単だと思ったが、いざ蹴ってみるとこれがなかなか難しい。相手の方どころか真上にすら蹴り上げられないし、そもそも蹴る瞬間に目を瞑ってしまうので鞠が足に触れない事も多かった。なまえも同じだったようで、明後日の方向へ飛んでしまった鞠を追いかけて茂みの向こうへ駆けていった。

「あー、また失敗だ……」
「次は僕の番だな。なまえが投げて」

 残念そうななまえだったが麻葉の言葉に頷いて鞠を放った。緩い弧を描いて足下に近付いてくるそれを彼は足の甲で受け止める。目線辺りまで上がったのを確認すると、2度目の蹴りで頭上高くまで飛ばした。何度も練習している内に要領が分かって来たようで、徐々に蹴りの精度が上がっているのは確かだ。それは2人とも同じだったが、三蹴り目まで辿り着いたのは麻葉が先だった。

「いち、にぃ、さんっ……なまえ!」
「わっ!? い、いち、にーい、さんっ、できた!」

 なまえに渡った鞠が再び麻葉まで帰ってくる。一度出来てしまうと不思議なもので、それから鞠の往復はしばらく止まらなかった。
 いち、に、さん。いち、に、さん。3つ数えては相手の名前を呼ぶ。鞠の往復が10を数える頃には2人の息はすっかり上がって、どちらともなく応酬を止め地面に転がっていた。

「わ、私、こんなに動いたの初めて……」
「僕もだ……犬に追いかけられた時でさえ、こんなに、疲れなかった……」

 もっともあの時追いかけて来たのは子犬だったけれど。と麻葉は内心付け加える。しかし蛇足な上に格好悪いので口には出さなかった。
 一時はお互いの呼吸だけを聞いていた2人だったが、息が収まる同時に飛び起きる。こんなに楽しい事があったのかと、どちらも堰を切ろうとしたその時だった。

 ぐうぅぅぅぅぅううううう〜〜〜〜〜

 麻葉と寸分違わぬ仕草で起き上がり、口を開きかけたなまえのお腹からくぐもった音が聞こえたのだ。何が起こったのか考えあぐねている間に、彼女の顔はみるみる赤くなる。

「お、お腹空いちゃった、ね」
「…………ぷっ」

 少し間を置いてから理解した麻葉は思わず吹き出してしまった。

「あーもう、笑うなー!」

 自棄になったのか、なまえは再び寝転んで手足をじたばたと暴れさせる。「お腹空いたー!」と何度も繰り返す様は完全にだだっ子のそれで、麻葉はおかしくて仕方なかった。

「麻葉のばかー。いじわるー」
「ぷ、くく……仕方ないではないか。僕だって食べ物なんか持ってない」

 家でささやかな朝食を食べてから随分経ったが、それでも夕飯まではまだ何刻もあるだろう。金持ちならばいつでも食べ物にありつけるのだろうけれど、里に出る事すら憚られる麻葉にとって食べられる量と種類は限られていた。
 育ち盛りだし、それで事足りると言ったら嘘になるけれど……。腹が減ったと泣いてははうえを困らせる訳にもいかない。
 我慢するしかないではないか、と麻葉が心中呟いているのを他所になまえは再び飛び起きたのだった。

「ねえ麻葉! これ、食べられるかな!?」

 彼女が持っていたのはどんぐりだった。夏も終わってしばらく経つので、山のそこらじゅうにどんぐりが転がっている。あまりにもおなじみの物だったので、気にした事もなかった。

「分からない。木の実はあまり食べた事がないんだ」

 今までははうえと山菜を採る事はあっても、栗など数種類を除いて木の実に手を付けた事はなかった。ははうえがどんぐりと拾うところも見た事がない。

「試してみようよ、ほら!」

 なまえがもうひとつ、その場で拾って麻葉に渡した。固そうな茶色い外皮をまじまじと見つめる。今まで食べられると認識していなかった物を口に入れるのは勇気のいる行為だった。
 ふと顔を上げると、なまえは既に皮を剥いて中身を取り出していた。麻葉もそれに倣う。なるほど、こうして見ると大豆のようで食えない事もない。
 背に腹は換えられないだろう。空腹なのは彼も同じだった。

 せーの、と言って同時に口に入れ、2、3回噛む。そして2人は一緒に噴き出した。何度も地面に唾を吐き出しては口の中を綺麗にする。とても食えた味ではなかったのだ。

「苦い!」

 來里は信じられないとでも言うように嘆いた。内心では期待していた麻葉もがっかりする。
 するとふと、麻葉にしか分からない程の弱い風が耳元を通り過ぎたのだった。

『ちかくに かきがなってるよ』

 共に聞こえたのは人ならざるものの囁き声で、麻葉は肩を強張らせる。この〝声〟は……ははうえが時々、食べ物の在処を教えてもらっている声だ。
〝彼ら〟に従うか、否か。耳を貸したらまた石を投げられるのではないかと、言い様のない不安が麻葉を襲った。けれどははうえから『山の精は腹を空かせた子供に優しい』とも聞いている。
 考えた末、麻葉は口を開いた。

「……柿のなる木を、知っている」
「ほんとう!?」

 麻葉は神妙に頷き、「こっち」と來里の手を取る。そして〝彼ら〟の言う通り、草木をかき分けて歩き始めたのだった。

*****

 しばらく進んで辿り着いた先には、細い枝をたわわに実らせた柿の木が何本も生えていた。目の前に広がる光景に2人は目を輝かせる。こんなにたくさん食べ物があるなんて!

「すごーい!!」

 來里は近くの木に駆け寄る。踵も上げて精一杯背伸びをしたけれど、柿の実までは頭2つ分届かなかった。木自体は細くてとても登れない。

「あさはぁ…………」

 これでは蛇の生殺しだ。來里は声を震わせたが、すぐに「そうだ!」と言ってその場に四つん這いになった。

「麻葉、取って!」
「え、えぇ!?」

 乗れと言うのか。おなごの背中に。
 麻葉はさすがに気が引けたが、ならば自分が下になるかと聞かれれば答えは「嫌だ」だった。
 ……仕方がない。柿が食べたいのは2人とも同じだ。
 麻葉は恐る恐る彼女の背中に足を乗せる。慎重に両足を乗せて、立ち上がった。同じ年頃の男の子の中でも小柄な方だったので、來里は少しも苦しくなさそうだ。
 手を伸ばす。柿を掴むまで爪ひとつ分足りなかったので、つま先で立つ必要があった。もう少し……もう、少し…………

「……取れた!」
「ほんとう!? って、」
「「うわぁっ!?」」

 2人はほこりを巻き上げながら崩れ落ちた。柿を手に入れた興奮のあまり、來里が立ち上がってしまったのだ。足場が傾いた麻葉は当然立っていられなくなり、彼女の上に倒れ込んでしまう。幸いなのは周りに落ちた枯れ葉のおかげで怪我をしなくて済んだ事か。

「いった〜〜〜……」
「來里っ!」

 危ないではないか! と怒ろうとしたが、出来なかった。自分の下で倒れている彼女が、あまりにも嬉しそうに柿を抱えていたから。

「ありがとう、麻葉!」
「あ、ああ……」

 その顔を見ていたら、何故か痛みも忘れてしまいそうだった。
 気を取り直して2人は木の根元に座り込んだ。結局ひとつしか取れなかったので柿の実は半分こだ。自分の分を頬張っていると、來里が麻葉の名を呼んで拳ひとつ分の距離を縮めてきた。

「……かあさまはとても優しいけれど、忙しくていつも会えないの」

 ねえ麻葉――再び名前を呼ばれる。その声はいつもと同じ調子なのに、遠くを見つめる瞳は不安げに潤んでいた。
 かさり、彼女の握りしめた木の葉が音を立てる。

「麻葉は、ずっと一緒に遊んでくれる?」

 寂しいのはもういやだよ。
 言葉にせずとも伝わってきた。麻葉も同じ気持ちだったから。
 寄りかかるように、遠慮がちに肩が触れる。まだ彼女の方が背も高いけれど、大人になる頃にはきっと、彼女を見下ろす程麻葉も成長しているはずだ。その時が来てもずっと友達でいよう。麻葉はそんな想いに押されるように口を開いた。

「……大人になったら、蹴鞠だけではなくて、貝合わせや唄合わせもしよう」

 來里は麻葉の手をぎゅっと握りしめる。「うん」と答える代わりだと言う事が、麻葉には充分伝わっていた。







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