やまのおくにも しかぞなくなる


 ざりざりと砂利を踏む音が迫って来ている。なまえは必死で息を殺した。〝彼〟に見付かってはならない――

 麻葉童子とその母麻ノ葉が住む山の中には、いつの間にか放置され朽ち果てた神社がひとつあった。里の子には〝霊の出る場所〟と恐れられているけれど、実際は神様どころか浮遊霊にも見放された廃墟だ。人の寄り付かないこの場所は麻葉となまえにとって最高の遊び場だった。半壊の建物がたくさんの影を作ってくれるので、ここを訪れる時の遊びは決まっている。

「もういーかーい?」
「もーいーよ〜〜!」

 それはかくれんぼだった。
 麻葉は鳥居の柱に伏せていた顔を上げ、辺りを見渡す。当然の事ながらなまえはどこにもいない。
 さて、どこから探そうか。ここのかくれんぼはお決まりになっているとは言え、隠れる場所は山ほどある。麻葉が知らないない穴場だってまだまだあるだろう。どうしようか迷うけれど……とりあえずは右から行ってみよう。なまえの声はそちらから聞こえた気がした。
 そこまで考えて、麻葉は注意深く歩き出したのだった。

*****

「もういーかーい?」
「もーいーよ〜〜!」

 祠の裏側、縁の下に身を潜めたなまえは元気よく答えた。声で方向を悟られないよう、麻葉がいる場所とは逆に向かって叫ぶ。万が一彼がこの場を覗き込んでも見付からないように、柱の陰に隠れる事も忘れてはならない。
 ざりざり……砂利を踏む音がする。彼がこちらに向かっているのだろう。高揚感によって沸き上がる笑みを漏らさぬよう、なまえは両手で口元を押さえる。

「なまえー?」

 彼はすぐ近くだ。けれど呼ばれたからと言って返事をする訳にもいかない。

「ここではないのか……」

 ざりざりざりざり…………落胆の声と共に足音は遠ざかっていった。
 やがて何も聞こえなくなると、なまえは堪らなくなって縁の下からそっと這い出る。見付かるかもしれないと言う焦燥感と、見付からずに済んだと言う安堵が彼女を大胆にした。辺りをぐるりと見やる。麻葉はどこにもいない。しめた。今の内に移動して、もっと分かり辛くしてやろう。なまえが静かに踏み出した時だった。

「――わっ!!」
「きゃあああッ!?」

 耳元ではじけるような声がした。心臓が口から飛び出すのではないかと言うほど驚きなまえは前につんのめる。膝と手をついただけでは勢いを殺しきれず、額を強く打った。訳も分からぬまま振り向けば、そこにいたのは涙を浮かべて大笑いする麻葉だった。

「見付けたぞ!」

 彼の様子に、先ほどの落胆は演技だったのだと気付く。無性に悔しくなって、なまえの頬はちょうちんのように膨らんだ。

「麻葉ズルい! ここじゃないって言ってたのに!」
「騙されたのはなまえの方ではないか」
「でもぉー……」

 納得できない、となまえは唸る。額がじんじんしてきて、鼻もツーンと痛い。折角うまく隠れられたと思っていたのに。悔しくて、視界が勝手に滲んだ。
 すると、流石に泣かれるとは思ってなかったのだろう。彼女の目の端から流れる一粒の涙を見て麻葉も焦り始めた。

「す、すまない! 冗談が過ぎた」

 ほら、と言って麻葉は両手を差し伸べる。ちらり、と見やってなまえもそれに両手を乗せて立ち上がった。目が合う。口を〝へ〟の字にした麻葉の瞳の中に、全く同じ表情の自分が見えた。それがなんだかおかしくて、額の痛みも忘れてなまえの口から笑みが漏れる。

「いいよ!……私の方こそごめんね」

 目尻の涙と少しの鼻水を袖で拭い、なまえはもう一度麻葉の手を握った。麻葉もほっと吐息を落とせば、もう仲直りだ。
 改めてなまえの顔を見ると、前髪から覗く額が赤くなっていた。びっくりして彼女の全身に視線を走らせる。なんと膝からも血がにじんでいるではないか。――僕の、所為だ。

「なまえ! 血が出ている!」
「え、どこ?」

 しかし当の本人は気にしていないようで、自分の膝を見ても「本当だー」と間延びした声を出すだけだった。それもそのはず、麻葉と仲直りできたのが嬉しくて、なまえは転んだ痛みなど忘れかけていたのだ。
 しかし麻葉にとってこれは一大事だった。自分の所為で女の子に怪我をさせてしまった。泣いていたし、きっと痛いはずだ。それにばい菌が入ったら、そこから膿んで死んでしまうかもしれない。

「僕の家に行こう。ははうえが薬草を持っているはずだ」

 有無を言わさず、麻葉はなまえの手を引いて歩き出す。
 初めて会った時とは逆だ、とどちらともなく思っていた。

 山の向こうの更に奥、人里離れた場所に麻葉の家はある。誰が建てたのかも知れない、中途半端な土間と寝床のみの簡素な家だ。けれど孤独な親子が住むにはちょうどいい、慣れれば居心地の良い場所だった。

「こっちだ」

 なまえの手を引いて麻葉は歩き続けた。草を掻き分け、知る者だけがなんとか見付けられる小道を辿っていく。するともうすぐ到着だというところで、向こうから草木を掻き分ける音がした。動物のそれとは明らかに違う乱雑な音は、紛れもなく人間のものだろう。

「麻葉?」
「しっ」

 見付かるとまた虐められる。そう頭によぎり、麻葉はなまえを連れて茂みにしゃがみ込んだ。葉の隙間から辺りをうかがっていると、すぐに男が数人現れる。見るからに金のかかっていそうな鎧を着けた者が2人と、僧侶が1人だった。

「それにしても、田浅様にはなんとお礼を言ったら良いものか……」
「良いのですよ。都に仇成す鬼を退治するのがワシの勤め。あの女もこれで地獄に落ちたでしょう」
「まったくです。闇と話す女の狐め……これで清々すると言うもんだ」

 麻葉となまえが身を潜める茂みを通り過ぎ、3人はあっという間に消えていった。男の高笑いがずっと離れない。…………嫌な予感がした。
 そして麻葉は気付いてしまう。あたりが焦げ臭い。
 料理上手な母が折角の食べ物を焦がすはずないし、何より夕飯にはまだ時間がある。それに木が焼ける臭いに混じる、この鼻につく臭いはなんなのだ。

「っ!!」
「麻葉!?」

 繋いだ手をほどいて走り出す。驚くなまえの声が聞こえたけれど構っていられなかった。目印の大木の横を抜けて生い茂る垣根を越えればすぐに我が家だ。逸る気持ちに急かさせるように麻葉は足を動かした。

 そして目に入ったものは――こうこうと燃える自分の家だった。

「ははうえ……?」

 全身の力が抜けて、その場に膝をつく。どこにも見えない母親の影と、むせ返るような臭いが麻葉に現実を押し付けようとした。
 嫌だ。考えるな考えるな考えるな。……そうだ、そんなはずない。きっとははうえは僕の助けを待っているんだ。
 自分を呼ぶ母親の声が聞こえた気がした。気が付けば、麻葉は炎に向かって一歩踏み出していた。

「麻葉っ!!」

 しかし倒れるくらいの力で手を引かれて、これ以上前に進む事は叶わなかった。邪魔をするなと後ろを睨むと、必死の形相で腕にしがみつくのはなまえだった。頬を熱い風が撫でていく。

「行っちゃだめ!」
「うるさい! ははうえが……ははうえが!!」
「だめ!!」

 離して欲しくて叩いた気がする。酷い事を言った気がする。けれど何度振り払ってもなまえは放してくれなかった。

*****

 炎は存外早く収まった。申し訳程度に残る残骸は家の形を忘れている。
 この頃には麻葉の中の衝動も収まって、抜け殻のように立ちすくむだけだった。傍らには、なまえ。かける言葉を探している。

「きっと大丈夫だよ」
「……………………」
「ほら、火が回る前に逃げたのかも!」
「………るさい」

 自分だってそう思いたかった。ははうえは生きていると。けれど貧しく生きる麻葉には〝あの臭い〟の正体が人の焼けるものだと分かってしまったし、ははうえがこの場にいない事が何よりの証拠だった。
 ははうえが僕を置いてどこかへ行くはずがない。
 ははうえは、もうどこにもいない。

『闇と話す女の狐め……これで清々すると言うもんだ』

 先刻の男達の声がよみがえる。そうか、あいつらが殺したのか……!

「元気出して。お母さん一緒に探そう?」

 怒りの闇が麻葉の心を蝕んでいく。今は目の前にいる少女すら憎かった。ははうえが死んでしまったと言うのに、何故そんなのんきな顔をしていられるんだ。こんな奴に僕の気持ちなんて分からない。

「うるさいっ! お前に僕の気持ちなど分かるものか!!」

 崩れる家が目に焼き付いて離れない。家から心に燃え移って、麻葉の身を蝕んでいるようだった。心の炎も一度灯してしまえば広がるのは早い。目の前の少女は自分と同じくらい非力で、理不尽な怒りをぶつけるのには最適だった。

「どうして……どうしてははうえなんだ…………同じのくせに! お前の母さんだって女狐なのに、どうしてははうえだけ……っ!」

 麻葉の中にひとつの言葉が浮かぶ。女狐のははうえだけが被害にあったと言うのなら、この女の母は狐と言うよりはむしろ……――

「……お前の母さんなんて、泥棒猫のくせに!」

 勢い余った言葉がなまえを貫き、彼女の顔を歪ませる。

「なんにも知らないくせに、かあさまを悪く言うな!」

 麻葉の馬鹿! もう知らない!!
 それだけ言ってなまえは走り去ってしまった。遠ざかる背中を見て胸の底がちくりと痛む。けれどそんなもの、母を失った絶望が簡単に飲み込んでしまった。

*****

 どれくらい時が経ったのだろうか。月と太陽が何度か登り、何度か沈んだ。
 守ってくれる者がいなくなった今、麻葉は一日を生きるので精一杯だった。望まなくとも腹は減る。そんな時は草を食み、魚を捕った。家は燃えたので、屋根があればそこが今日の宿だった。

 金持ち以外は誰もが生き地獄を味わうこの世の中で、麻葉のような子供は珍しくもない。彼ひとりが軒下で座り込んでいても、邪魔そうに見る者こそいれど手を差し伸べる人間なんて1人もいなかった。
 やはりこの世は腐っている――濁った目で夜空を見上げ、麻葉は毒づいた。目の前では数えきれない程の妖が列を成していたが、怯える気力なんぞない。なんせ昨日おかしな草を食べて腹を下してから何も飲み食いしていないのだ。飢えも渇きも感じるけれど、それ以上に全てがどうでも良かった。

……もう死んでしまおうか。必死で生きても良い事がないし、死ねばあの世でははうえに会える。
 麻葉が全てに絶望していた、そんな時だ。

『おめェ、いつもひとりでここ居んな』

 闇夜に並ぶ鬼の一体が、彼に未来を与えた。







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