ひとにはつげよ あまのつりぶね


 乙破千代は不思議な鬼だと麻葉童子は思っていた。彼はその辺にいる鬱陶しいだけで無害な浮遊霊とも煩悩離れした精霊達とも違う、本来なら恐れるべき百鬼夜行の一員だ。なのに気軽に話しかけてきて、それも「遊ぼうぜ」だなんて。

「だから、そこは〝とめ〟じゃなくて〝はらい〟だっての!」
「んむぅ……」

 終いにはこうして、字の書き方なんぞ教えてくるのだ。彼はどこか人間臭くて、なのに麻葉が出会ったどんな人間よりも優しかった。

「乙破千代は細かすぎるのだ。こんなもの読めれば良いではないか」
「だーめーだ。字ってのは他の誰かに読ませるモンだろ。綺麗な方が相手に色々伝わるんだよ」
「色々とはなんだ?」
「そりゃあ、まぁ…………色々だよ!」

 納得がいかない。そんな顔でじっと見つめると、気不味くなったのか乙破千代は「今日はこのくらいにしといてやらぁ」なんて言って顔を背けてしまった。仕方なく麻葉も筆と紙を片付けて寝る準備に入る。布団代わりのボロ布に潜り込んだところで、乙破千代はろうそくを消した。そして「おやすみ」と交わすと、辺りは静寂に包まれる。

「……もう寝たか?」
「そんなすぐには寝られない」
「だよなー」

 ケラケラと、随分おかしそうに乙破千代は笑った。屈託のない声が耳に心地良い。ははうえが死んでから絶望の淵に沈んでいたのに、嘘みたいに穏やかな気持ちでいられるのは彼のおかげだ。

『ここ数日一緒に居たけどよ……おめェ、他に友達いないのか?』

 かと思いきや、彼は時々こうしてはっとするような言葉を投げかけてくる。寂しい奴だな、と暗に言われている気がして、思わず起き上がって反論した。

「僕にだって友達くらい……!」
「友達くらい?」
「…………いた」

 頭をよぎるのは他でもない、なまえの顔だった。唯一の友人だったのに、もうずっと会っていない。なのに目を閉じれば、涙を溜める最後の姿は今でも鮮明に思い出せた。

「その顔は訳ありみてェだな」

 馬鹿にせず、呆れもせずに問う乙破千代に、麻葉は全てを話さずにいられなかった。

 なまえと出会ってから喧嘩するまでの一連を話した後、置かずに貰ったのは大きな溜め息だった。

「……おめェ、そりゃただの八つ当たりじゃねーか」
「分かっている!……でも、」

 思わずカッとなって麻葉は大きな声で言い返す。けれど彼の言い分がもっとも過ぎて、次に繋げる言葉が見付からなかった。
 あの時はははうえを亡くした怒りでどうしようもなかったけれど、頭が冷えてみれば幼い麻葉にも分かる事だ。なまえは何も悪くない。だからこそ彼女の姿を思い出すと麻葉の心がちくちくと痛み出して、けれど謝ろうにも時間が経っているし何より本人に会えていない。

「でもなまえを怒らせてしまって、もうどうしたら……」
「なんだ、おめェそんな事で悩んでたのか」

 再びケラケラと笑って、今度は乙破千代が布団から跳ね上がる番だった。

「簡単だよ。謝りゃいーんだ」

*****

 おめェは生きてるんだ。まだ若いし、遅すぎるっつー事はねェ。
 それが乙破千代の言い分だった。理屈は分かるけれど、そんなに簡単なものだろうか。それに以前はなまえが来るばかりで麻葉から訪ねた事なんて一度もなかったから、そもそも居場所が分からない。

「向こうも会いたがってんなら、いつもの場所に行きゃ必ず会える」
「……本当にそう思うか?」
「オレを信じろって!」

 気軽な口調で背中を押されるとなんとかなる気がして、麻葉は言われるまま山へ足を踏み入れたのだった。

 そんな訳で麻葉は単身、山の中でなまえを待っていた。ははうえが死んでからもこの山で食べ物を探したり廃墟で夜を明かしたりしていたけれど、昼間から何もせずここにいるのは久しぶりだ。ここ最近は乙破千代の提案で、日の高い内は都中を回って知識を身に付けていたのだ。

 さらさらと流れる小川は、なまえと初めて会った時に怪我と汚れを拭ってくれた場所だ。里からそう遠くもないこの地はいつも2人の待ち合わせ場所だった。
 なまえは来るだろうか……と麻葉は緊張した面持ちで聞き耳を立てる。ここに来る為には草の中を進まなければいけないから、誰か来た時はすぐに分かるのだ。けれど広い都でどれだけ歩き回っても彼女の影を見る事はなかったのに、こんなに都合良く会えるのだろうか。

 けれど太陽も真上に迫って腹の虫が起き上がろうとする頃、麻葉の心配を他所に茂みを掻き分ける音が聞こえた。それは動物にしては乱暴だけれど、大人にしては随分と小さい。
 やがて草木を避けて顔を出したのは、他でもない目を丸くしたなまえその人だった。

「麻葉……!」
「なまえ!!」

 思わず駆け寄って、彼女の両手を握りしめる。ぎゅっと握り返されるのと同時に息を吸って、たった4文字「すまない」と声に出すだけ。
 それだけだったのに。

「――おーい、マッパ童子! 飯にしようぜ」

 がさごそと再び音がして、逆側の垣根から乙破千代が頭を覗かせた。彼は麻葉と目が合い、なまえを見て、しまったと口をつぐむ。霊体である乙破千代はなまえに見えないし、麻葉も彼女の手前反応する訳にいかない。

「あ、麻葉……そこにいるの、何……?」
「「!?」」

 しかし、なまえの目ははっきりと乙破千代を映していた。まさか霊視の力までお揃いだなんて、と麻葉は顔に喜色を浮かべる。
 だからだろう。なまえが麻葉の手を振り払っても、それが何を表しているかなど気が付きもしなかったのだ。

「なまえにも乙破千代が……鬼が見えるのか!?」
「お、に……? 鬼なんて見えない……知らないっ!!」

 吐き捨てるようになまえは叫んだ。怯えるように目を伏せ、小さな手で両耳を塞いでいる。目の前の現実から逃げるような姿に、麻葉は乙破千代と出会う前の自分を重ねてしまった。「狐の子だ」と殴られるからと、霊的な存在を避け必死で見ないようにしていた自分と。

「だって……これは、なまえだけの秘密なの…………見えてしまったら、かあさまに嫌われてしまう……! かあさまが、本当に狐にされてしまう!!」

 ぶつぶつと繰り出される独り言は大きくなり、やがては悲鳴に似た声に変わった。麻葉は彼女が悲痛な顔を浮かべるのが我慢ならなくて、必死に言葉を探す。ただ違うのだと。自分達は鬼でも狐の子でもなく、たまたま特別な力をもって生まれてしまった人間なのだと伝えたかった。

「なまえは狐の子なんかじゃ「麻葉も私を狐と言うのか!!!」

 最後にほとんど叫喚に似た声を上げ、なまえは走り去ってしまった。彼女の背中に手を伸ばすも、麻葉の足は地面に吸い付いたまま動かなかった。追いかけたところでうまく慰める言葉など見付からない。彼女が何故そこまで自分を拒否するのか、幼い麻葉には分からなかったのだ。

「……聞く耳持たず、か」
「乙破千代……僕はどうしたら良いのだ……なまえが…………」
「ま、誰も彼もがおめェのおっかさんみたいに優しい訳じゃねって事だ」

 なまえの背中が見えなくなったところで、やっと乙破千代は麻葉の元にやって来た。なまえの放った言葉の端々を繋ぎ合わせて、彼女の身の上を想像する事は難くない。何より乙破千代には人の心が見える。

『かあさま、あそこにいる影はなぁに?』
『っ!?……今度そんなモノが見えるなんて嘘ついたら、承知しないよ!』

『あの遊女の娘、闇に向かって挨拶なんぞしたらしいよ』
『客足が良い女だとは思っていたけれど、子狐の方からボロが出るとはねぇ』
『父親だって誰だか知れない。下品な女は百鬼夜行すら誘惑しかねないよ』

 ぶたれて腫れた頬と、嫌らしい大人の笑い顔――乙破千代の中へ流れ込んできたものこそが、なまえがとった態度の答えなのだろう。……こればかりは、麻葉の力ではどうしようもない。向こうが拒絶するのなら諦めるしかないだろう。人の生と鬼の生、両方を生きた乙破千代にとって友人をひとりなくすのは大した事ではなかった。

「おめェはまだ若い。友達なんざまた「……そうだ、文字だ!」

 乙破千代! と肩を掴まれた。藁にもすがるような形相を見ると、乙破千代は何も言えなくなってしまった。非道な大人の考えを押し付けるには、この少年の瞳は純粋すぎる。

「文字は色々伝えられるのだろう!? 文を書けば、なまえにすまなかったと伝えられる!」

 だからお願いだ、もっと僕に文字を教えておくれ。
 必死に頼む麻葉を前に、乙破千代は頷くしかなかった。

*****

 それから更に数日が経った。一心不乱に練習した甲斐あって麻葉は文字を会得し、文が書けるようになっていた。
 夜、麻葉と乙破千代はいつものようにボロ布を並べて床についた。今夜は満月が明るい所為か、どちらも目が冴えてなかなか寝付けない。

「……乙破千代。お前はなんでも知っているのだな」

 今夜口火を切るのは麻葉の方だった。乙破千代が耳を傾けると、彼はもう疲れてしまったのだと言う。毎日必死に生きて乙破千代という友人が出来ても、〝死〟は麻葉の心を掴んで放さない。頑張ったって世界は麻葉に厳しく当たるし、人間を辞めて楽になりたかった。

「お前のように鬼になれたら良いのにな」
「……苦労出来るから生きるって事は楽しいのさ。まぁおめェにゃまだ分かんねェだろうが」

 乙破千代は心の綺麗な麻葉にこそ、この世界を生きていて欲しかった。彼は純粋な麻葉を気に入っていたし、真っ当な人間にしたいと思っている。自分が歩んだ人間としての生は後悔しか残らなかったから、この幼い少年にはそんな風に生きて欲しくないのだ。
 変えようもない世の中の事、喧嘩別れした友人の事、そして彼の心を過去へ縛り付ける母親の為の復讐――2つは本人の気心次第で幾分かマシな道が開けるけれど、最後の1つだけはなんとかしない限り麻葉の心を腐らせ続けるだろう。

「良いぜ。こんな世の中、少しくらい鬼の力も必要だろ」

 言葉は自然と口を飛び出していた。

「本当か!?」
「ただし、ひとつ約束がある。これが終わったらちゃんと仲直りするんだ」

 文も書いたんだしな。自分の努力は無駄にしちゃいけねェ。
 そう締めて、乙破千代はいつものようにケラケラと笑う。
 遠くから2人の様子を見つめる不穏な影には気付かなかった。

*****

――そして、麻葉は1人で佇んでいた。

 傍らには折れた刀。乙破千代はもうどこにもいない。力を貸すと言った乙破千代が教えてくれたのは、彼の能力がそのまま使えるようになる不思議な術だった。
 ははうえを殺した者は探さずとも麻葉を殺しにやって来た。けれど乙破千代の力で人の心を読み、金棒を操れるようになった麻葉にとって、返り討ちは造作もない事だった。

 誰もいなくなり、赤い水が流れる川のほとりで麻葉は思う。
 自分が危ないとなれば心にもない事を言って、いざ死ぬ時は涙と鼻水を垂らしながら命乞いをする……高尚な僧侶でさえそうなのだから、人間というものは本当にちっちぇし汚らしい。

 けれど、友人を犠牲にし、醜い人間の血を浴びた自分は――?

『これが終わったらちゃんと仲直りするんだ』

 昨夜の乙破千代を思い出す。文は用意した。けれど…………渡せるはずが、ない。

 なまえに文を渡して、読んでくれなかったら?
 彼女の胸の内を聞いてしまったら?
 顔も見たくないほど、僕を嫌っていたら?

 考えれば考えるほど、麻葉は怖かった。
 もう、なまえには会えない。

「……すまない、乙破千代」

 空気に溶ける麻葉の声を聞く者はどこにもいなかった。







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