いでそよひとを わすれやはする
随分懐かしい夢を見たものだ。
起き抜けの意識で葉王は思った。夢で会った、柿を後生大事に抱える少女――もう忘れたと思っていたのに、彼女は未だ鮮明に葉王の中に残っていたらしい。
隣で女が身をよじる。目が覚めたかと思って咄嗟に微笑を作ったけれど、ただの寝返りだったようだ。ほっとして愛想笑いを解いた後、女を起こさないようにそっと御帳から抜け出る。朝日も昇っているし、もう帰るとしよう。
文を残そうかとも思ったが、女の名前が思い出せないから止めた。そのまま立ち去っても勝手に良い意味に解釈してくれるだろうし、まぁ良いか。
葉王はそそくさと狩衣を着て、振り返りもせず屋敷を後にしたのだった。
都を照らす太陽は未だ低い位置にあった。牛車に揺られながら葉王は今朝の夢を思い出す。水が井戸のひびから漏れるように、ぽつりぽつりと昔の記憶が蘇った。初めて少女と遭った時、手拭いを振り回して歩く姿、かくれんぼで見付かってすねる顔、そして怒りを瞳にたぎらせ去っていく背中……彼女の名は――
「――いい加減におし!」
パァン!
突然、乾いた音と女の喚き声が葉王の思考に割って入った。思わぬ不快感に顔を歪める。折角喧騒を避けて道を選んでいたのに、これでは意味がない。
「さぁ、盗んだ扇子を出しな!」
「私ではありません!」
それに、何の騒ぎだと思えば……。
盗む方も大概だし、決めつけてなじる方にもうんざりだ。どちらも自分の保身の為、相手の事など考えてすらいないのだろう。
本当に、くだらない。
葉王が牛の歩みを早めるよう、口を開きかけた時だ。
「しらばっくれるんじゃないよ! ねね、アンタが何を見たか言っておやり」
「なまえがおきく姉さんの部屋に入って行く所です」
「それは、部屋の掃除を頼まれたからッ!」
「誰がアンタに頼むもんか!」
「そんな……!」
そう、なまえだ。忘れるはずがないと思っていた、ただひとりの友達の名はなまえだった。
葉王は焦る思いで物見を開けた。通の向こう側では女が1人と2人、対峙する形で立っている。目を凝らしても、3人の顔までは見えなかった。
「……止まれ」
牛を止めさせ、葉王は腰を上げる。何か言いたげな従者を目線で制すと、女達の元へ歩を進めた。高鳴る胸がもしかして、もしかして、と語りかける。なまえなんて珍しい名前でもないし、こんなに都合の良い事なんて起きる訳がない。でも、もしかしたら。
今朝の夢は、吉兆のお告げだったのかもしれない。
震える声を悟られないように、葉王はゆっくり口を開いた。
「騒がしいぞ。何ゆえかような場所で声を荒げる」
彼の存在に気が付いて、女達は慌てて頭を垂れる。全員の顔をかすみ見て、今度こそ息を呑まずにはいられなかった。歳を取って顔立ちは多少変わっていれど、見間違えるはずがない。他の2人に責められていた彼女こそ、夢に出て来た親友だったのだ。
「恐れ入ります、貴族様。この者が、わたくしの扇子を盗んだのです。妹分のねねが証人ですわ」
「私はやっていません!」
おきくと呼ばれた女が答え、まっすぐなまえを指差した。脇に控えていたねねと言う女も隣で何度も頷く。多い被さるようになまえは悲痛な声を上げたけれど、おきくに睨みつけられるだけだった。
瞬間、葉王の脳内に下品な声が響く。
「(本当は私が持ってんだけどね! おきくも馬鹿だよ、簡単に私を信じて!)」
それがねねの心の声である事はすぐに分かった。そして頭の中に流れる映像、それはねねがなまえに部屋の掃除を言いつける場面だった。
汚い、気持ち悪い。むき出しの人の心に吐き気を覚えるが、なんとか飲み下す。むしろこれは好機と捉えるべきだ。心の内が読めてしまえば、解決するのは簡単なのだから。
「そこの者」
「は、はい!」
葉王はねねに声をかけた。証言を促されると思っているのか、表情の節々に現れる意地の悪さに「ちっちぇえな」と吐き捨ててしまいそうだ。
「右の袖に隠している物を出せ」
ねねの顔が明らかに歪む。今度は心を読まずとも、彼女が何を考えているのか手に取るように分かった。
「ねね、アンタまさか……!」
「な、なんの事だか分かりませんわ、おきく姉さん!」
「御託は良い。出さなければ命の保証はしない」
低い、唸るような声だった。葉王は本気だ。女2人の茶番など本当は至極どうでも良い。けれどなまえがここにいると分かった今、一刻も早くこのくだらない騒動を終わらせてしまいたかった。
ねねは渋々と言った様子で袖から細長い物を出す。おきくが引ったくるように奪ってそれを広げると、金粉のあしらわれた扇面が現れた。
「アンタ、私を騙していたんだね!?」
「違います! ご、誤解です!!」
もう良いだろう。この件はこれで終いだ。
女2人の言い争いを尻目に、葉王はまっすぐ最後の人物を見つめる。2人の諍いを見、葉王を見、なまえは目を丸くしていた。
「着いて来なさい」
目も合わさず告げて、葉王は牛車に戻る。戸惑いながらも、なまえは言う事に従うのだった。
*****
名も知らぬ貴族に言われるまま、なまえは牛車の隅に身を落ち着けていた。否、正確には心身共に全く落ち着けていない。豪華な作りの屋形はそわそわするし、胡散臭そうに見てくる従者の視線も痛かった。
何故自分がこんな場所に?――どう考えても分からなくて、なまえは頭を抱える。目の前の彼は仕事で推参した宴でも見た事がないし、何より彼女を気に入った今までのどの貴族の男とも態度が違い過ぎた。彼はこちらに目もくれず、物見から外を伺っているだけなのだ。
「……女」
「は、はい!」
冷たい声をかけられて思わず頭を床にこすりつける。無遠慮に見ていた事が知られてしまったのだろうか。
「名はなんと申す」
「なまえでございます、貴族様」
「なまえ、か」
呟くように名前を呼ばれて、それからまた、今度ははっきりと呼ばれた。
「この顔に見覚えはないか」
恐る恐る顔を上げる。男はこちらを向いており、中世的な顔は見蕩れてしまいそうなほど美しい。今まで客にしてきた金持ちのような脂ぎった強欲さはなく、憂いを帯びた瞳が細められていた。こんなに美しい人を見たのは初めてだ。
なまえは声を出さず、首を横に振る。目の前にいる権力者の機嫌を損ねてしまわないかという不安と、未だ解決しない「何故この人が私を?」と言う疑問が頭を焼き切らしてしまいそうだった。
見つめ合っていたのはほんの数秒だった。彼は顔を逸らし、肩を震えさせる。やはり怒らせてしまったとなまえが身構えると、意外にも漏れ出したのは笑い声だった。
「くっ……ふ、ふ、……はっはっは!……酷いなぁ、僕はすぐに分かったと言うのに」
我慢出来ない、とでも言うように笑いは後から後から溢れ出す。ついさっきまでの冷たい態度とは打って変わった暖かみのある態度はむしろ、なまえの頭に疑問符を増やした。何が起こっているのか、全く分からない。
しばらくして落ち着いたのか、ゆっくりと彼の笑いが収まった。目尻に滲む涙を拭いながら、彼は穏やかに続ける。
「蹴鞠の後のどんぐりは、少しも美味しくなかったね」
その途端、なまえの中に懐かしい光景が広がった。
綺麗な鞠を貰って、いちにもなく大切なあの子へ見せに行ったあの日――お腹が空いたと喚いて、2人で茶色い木の実に手を出した。あれは紅葉が舞う秋の事だった。
あの日々の事を1日たりとも忘れた事はなかったのに。
目の前で笑う彼が、あの時の、自分より背の低かった男の子だなんて。
「あ、麻葉、童子……!?」
肯定する代わりに、彼が満足そうに微笑んだ。
「あの後の事を覚えているかい?」
「ええ、私ったら麻葉に『背中に乗って』なんて言って」
「おなごの背中に足を乗せたのは、後にも先にもあの時だけだよ」
「だって仕方ないじゃない。麻葉の方が背が華奢で、軽そうだったんだもの」
ふふ、となまえは笑う。彼の正体を知って懐かしい話に花を咲かせたからか、随分と緊張がほぐれたようだ。
幼い頃一緒に野山を駆け回った童子は、今や立派な青年へと成長していた。片膝を立ててくつろぐ姿は優雅で、生まれながら高貴な人間だったのではないかとすら思わせる。感嘆の息を吐くように、なまえは呟いた。
「……大きくなったね」
「なまえの方こそ、綺麗になった」
間髪入れずに返された言葉がくすぐったい。仕事上お世辞は言われ慣れているのに、葉王から聞くそれは全く違う意味を孕んだ。
「冗談はよして。みすぼらしい、ただの平民だわ」
だからこそ、なまえは聞きたくないと顔を逸らす。
そんななまえの心を感じながら、葉王はちらりと彼女を見た。下げ髪に袿……装束から察するに、母の跡を継いで遊女になったのだろう。教養も全て受け継いでいるだろうし、小綺麗にもしていてみすぼらしいとはほど遠い。けれど吐き捨てるように自分を形容する彼女の顔には翳りがあった。
「……なまえの母さんは?」
「…………流行病で」
「すまない」
「いいの。仕方のない事だから」
影が深くなる。雰囲気を変えようと、葉王は声を少しだけ大きくした。
「そういえば、元服して名前を変えたんだ。今は麻葉童子ではなく、麻倉葉王と名乗っている」
「立派な名前……もう麻葉だなんて呼べないわね」
再び短く笑い、悪戯っぽくなまえは言った。何事もなかったような明るい雰囲気に葉王は安堵する。
ふと、回りに霊力を感じて外を確認した。案の定、牛車は麻倉邸に近付いてきたようだ。するとなまえの背筋が強張ったではないか。
葉王の記憶から呼び起こされるのは最後に会った時の事だ。幼い葉王に声をかける乙破千代の姿をなまえは瞳に映していた。そうだ、彼女は〝視える人〟だった。そしてその事実に恐怖していた。
「……怖がらなくても良い」
震えるなまえの手をそっと包む。小さく白い手は絹のような肌とは決して言えないけれど、母を思い出させるあかぎれが葉王には貴族の娘のそれよりも尊く感じた。
「僕は帝に仕える陰陽頭で、門にいる奴らは僕が使役する式神だ」
ここでは視える事が普通なんだよ。
なまえを安心させる為、葉王は努めて優しく囁いた。彼女の瞳が不安で揺れる。あれが視えてしまったら嫌われるのに、ここではそれが普通だなんて。どうやって受け止めれば良いと言うのか。
幼い頃の出来事が甦る。視えてしまってはいけないと必死で自分を押し込めていた時期に、唯一の友達の傍らに鬼を視てしまった事。そしてそれを否定した事を。
騒ぐ心と呼吸をなんとか落ち着かせて、なまえは言葉を探す。同じ事を繰り返したくない。今は怖がる時ではない。
「……ずっと、謝りたいと思っていたの」
大人になってから――否、幼かったあの日ですら、冷静になれば分かる事だった。麻葉は〝狐なんかじゃない〟と言ってくれたのだ。
それを拒否して、人間である事を否定したのはなまえ自身だった。
「麻葉……じゃなくて、葉王を傷付けたわ。許して欲しいなんて言えないけれど……」
「許すも何も、最初から恨んでなどいない」
今も昔も、葉王はただなまえと仲直りしたいと願っていた。乙破千代に文字を教わって書いた手紙には、謝罪こそあれど恨みの言葉など書いていない。雪が溶けて春の川へ流れ出すように、胸の奥底にあったわだかまりが消えていく。まるで心だけ、喧嘩する前の幼いあの頃へ帰っていくようだった。
「それでも、ごめんなさい」
「もう良い。僕の方こそ悪かった」
そんな彼らを乗せて、牛車はゆっくりと麻倉邸の門をくぐったのだった。