いまひとたびの みゆきまたなむ
うぐいすの鳴き声が聞こえて葉王は静かに目を開けた。眼前の天井が自室の物だと分かってはいても、どうも見慣れなくて苦笑する。昨夜はどの女の家にも行く気になれなくて久しぶりにひとりで夜を過ごしたのだ。十年来の友人を置いて家を空ける事なんて出来ない、と誰にでもなく言い訳をしながら。
布団に身を預けたまま、葉王は前触れもなく昨日の事を思い出した。なまえと最後に会ったのが忠具に拾われる前の事だったから、かれこれ15年以上経っているだろうか。自分が氏名を変えみなしごから陰陽頭にまで成り上がったように、この年月の間になまえの身にも様々な事があったのだろう。何よりも彼女の心の声がそう語っていた。
母親が流行病で死んだなんて嘘だ。なまえの母について尋ねた時、葉王の中に流れ込んできた映像――男に着いて遠ざかる母の背中に、どうしても追いつけないなまえの姿と、想い。
『アタシにはアタシの人生があるんだよ。子守りなんてもうたくさんだ』
『待ってかあさま! なまえを置いて行かないでッ!!』
その後彼女がどんな生活を送ってきたかは、昨日の出来事を見ずとも想像に難くない。
どうしたものか、と葉王は思案する。あんなにも母親を慕っていたのにと無意識に自分と重ね合わせ、葉王の心が軋んだ。
折角仲直り出来たのだから、なまえには昔のように明るく笑っていて欲しい。
庭先が騒がしくなったのは、そんな事を考えていた時だった。
「おやめくださいなまえ様!」
葉王の耳に飛び込んできた侍女の声は、明らかになまえに向けられているものだった。彼女に何かあったのかと慌てて御簾を上げる。すると庭先で、箒を持ったなまえが侍女に追いかけ回されているではないか。
目の前で起こっている出来事に脳が追いつかず、葉王は口を開けて佇む。すると彼に気付いたなまえが笑顔で歩み寄って来た。
「おはようございます、葉王様。今日は良い天気ですし、お布団代わりの単衣を干されてはいかがですか?」
しかもこの言動……客人らしからぬ振る舞いに、葉王は返す言葉が見付からなかった。
「申し訳ありません葉王様! 先ほどからなまえ様が、従者の真似事をすると言って聞かなくて……!」
侍女の言葉を受けて、遥か彼方まで飛んでいた葉王の意識が少しずつ戻ってきた。理由までは分からないけれど、何が起こっているかまでは飲み込めた。よし、とりあえず納得しようか。自身にそう言い聞かせながら次の言葉を探す。
「……なまえ」
「はい! なんでございましょう、葉王様?」
「朝餉は済んだのかい?」
「いいえ、主より早く頂く訳にはいけません!」
「ならば早く済ませて、終わったら僕の部屋に来るんだ」
それまで箒はそこの者に返しておきなさい。
溜め息まじりで続けると従者は安堵し、なまえは渋々と言った様子で箒を手放したのだった。
*****
静かな葉王の部屋で2人は対峙していた。彼らの間には2尺ほどの空間があり、そこには何もない。元々葉王の部屋は殺風景すぎるほどだった。
「どうしてあんな真似をしたんだい?」
葉王の言葉には呆れと、ほんの少しの驚きが混じっていた。対してなまえは首を傾げて答える。
「だって……その為に私を連れ帰ったのでしょう? 私に仕事を賜る為に」
葉王の屋敷に連れてこられた理由を一晩考えて、なまえが出した答えはこれだった。きっと彼の屋敷では召使いが足りていないのだろう。そんな時昔なじみの自分に出会って、ちょうどいいから雇おうとしてくれているのだ、と。
そんな彼女に葉王は戸惑っていた。人の心が読めると言えど、別室にいた人間が夜の内に考えていた事までは分からない。まさか彼女がこんな勘違いをしていただなんて。
「違うよ。君は僕の大切な客人だ。好きなだけここにいれば良いし、ここにいる間は仕事などしなくても良い」
「でも、このお召し物だって……」
昨日屋敷に通されてから風呂に入れられて、なまえが女官に着せられたのは彼女らと同じ着物だった。質素ではないけれど簡素なそれは一目で使用人と分かる物で、着ているなまえが客人だとは誰も信じないだろう。
「この家に女の服は端女の物しかないから、仕方なくだよ。君さえ良ければいくつか見繕わせようか」
「でも、それでは申し訳ありません」
「良いんだよ、僕がそうしたいだけだ」
「でも……」
なおも食い下がるなまえに、葉王は呆れた笑みをこぼさずにいられなかった。そうだ、この友人はこうと決めたら絶対に成さずにいられない性格だった。……変わらないな。
「では仕事をやろう。僕と1日1回囲碁を打つ事、これならなまえも心置きなくこの家にいられるだろう?」
「そんな事で良いのですか?」
「じゃあ負けたらお仕置きだ。次の日までに歌をひとつ詠んでおいで」
「……分かりました」
けれど大人になった葉王にとって、そんな分からず屋の主張をいなすのは造作もない事だった。間を置く事なく涼しい顔で続けられた言葉になまえは二の句が継げない。遂には唇を尖らせて了承する姿に、葉王は勝ったと口角を上げずにいられなかった。
「さぁ、そうと決まったら早速始めようか」
葉王は部屋の外に待機していた従者を呼び、碁盤を持って来させた。普段自室で囲碁に触るのは考え事をする時で、それも詰碁をするぐらいなので、碁盤の向こう側に誰かがいるのは随分と久しい。けれど対戦は全くしない訳ではなく、接待で貴族と打つ事もあるので手慣れていた。それはなまえも同じだったらしく、局面は滞りなく進む。
そしてその日の勝敗は……――
「…………負けました」
なまえは深く息を吐き、頭を下げた。対照的に葉王は満足そうだ。実はどんな作戦も丸聞こえだったなんて知られたら、彼女は怒ってしまうだろうか。
いや、きっと言っても信じてくれないな。笑顔の下で葉王は自嘲する。碁石を置く時のなまえは眉ひとつ動かさない湖畔のような佇まいだったし、何より〝人の心が読める〟なんて突拍子もない事を誰が信じるだろうか。
「ふふ、それじゃあ、明日までに一句詠んでおいで。お題は、そうだな……歳月の長さにしようか」
少し格好付け過ぎたか。言葉にした後で葉王は後悔する。いくら久方ぶりの再会とは言え、こんなところにまでそれを引きずるのは無粋だったかもしれない。けれど一度放った言葉は取り返せず、せめてなまえに霊視の力がなくて良かったと葉王は気付かれないよう安堵した。
そんな葉王の心中を他所に、なまえは少し思案した後に口を開く。紡ぎ出されたそれは紛れもなく上の句だった。
「昨日といい けふとくらして あすか川」
「……流れて早き 月日なりけり」
反射的に下の句を繋ぐ。最近貴族の間で名が立ってきたその歌は何度か聞いた事があった。確かこれも歳月を詠ったもののはず。
「やはりご存知でしたか」
残念です、今日の分はこれで帳消しにしてしまおうと思っていましたのに。となまえは悪戯っぽく続けた。思わぬ仕返しに葉王は面食らい、胃の上がむずむずするような、何とも言えない気持ちになる。何故だか早くこれを誤摩化さなければいけない気持ちになって、葉王は口を開いた。
「その言葉遣いも直そうか。友人同士なのに敬語を使われるのはおかしい」
「いいえ、これだけは譲れません」
取りつく島もなし。すねるようにそっぽを向かれたので葉王は諦めるしかなかった。あまりあれこれ言っては可哀想だし、これくらいは許してやろう。……まぁ、素直に見逃しはしないのだけれど。
「昨日はあんなに親しく話してくれていたのに?」
「あ、あれは懐かしかったから、つい……!」
今度は大げさなほど慌てふためく姿を見て、葉王は遂に声を上げて笑わずにはいられなかった。彼女の表情は万華鏡のようによく変わって、今も昔も自分を飽きさせた事がない。
こうしてなまえと話していても、葉王の頭には何の声も流れてこなかった。これは彼女の言葉と本音が一致している何よりの証拠だろう。
久しぶりに気の置けない会話が出来たからだろうか、葉王は自分でも驚いてしまうほど今この時を楽しんでいたのだった。