みだれそめにし われならなくに


 ぱち、ぱち、と、碁石を置く音だけが部屋の中に響く。使用人ですらしばしの暇を持て余す、昼下がりの事だ。
 なまえは葉王の部屋にて今日の仕事をしている最中だった。〝この屋敷に滞在する〟という対価の為、申し訳程度に与えられた仕事だけれど、彼女にとっては1日1回の大仕事である。真剣に取り組まねばならない。

「(これで右におとりが出来るから、囲まれている内に左の陣地を作って……あ、なんで左!?)」

 しかしどんなに綿密な作戦や予想を立てても、考えた傍から一番嫌な場所に碁石を置かれてしまう。表情にも目線にもなんの素振りを見せていないつもりなのに、なまえには不思議で仕方なかった。

「…………もう、打てません」

 そして今日も、終了の合図はなまえから上げられる。葉王はいっそわざとらしいくらいの微笑みを浮かべて碁盤の目を数える作業に入ろうとするけれど、なまえの負けは明らかだった。
 麻倉邸に着いてから今日で5日……戦歴も同じく5敗だ。仕事の一環で貴族を相手にしていた時はおだてる為にわざと負けるなんて事をする程実力があっただけに、こう毎回全力で挑んでも負けてしまうのは素直に悔しかった。

 一方、そんななまえの悔しさも葉王には筒抜けだった。涼しい表情の裏に隠れる彼女の焦りや落胆を聞く度に、笑みをかみ殺す努力をしなければいけなくて我ながら性格が悪いと思う。しかしいくら作戦が筒抜けとは言え彼女の戦略は高度なものだったし、瞬時に対策を立てるのもやりがいがあった。

「じゃあ、明日までにまた一句詠んでおいで」
「……こんなにたくさんの詩を詠ったのは生まれて初めてです」
「そう嘆くな。毎回お題を考える僕の身にもなって欲しいな」
「明日こそはその重荷を背負って差し上げますよ」

 お互いわざとらしく不敵に微笑む。2人の間に駆け引きなんて必要ないというのに、こんな時間が楽しかった。
 ふと、時刻を知らせる鐘が聞こえた。そろそろ良い頃合いだと葉王は立ち上がる。いつまでも昼休みを取っているわけにはいかない。

「これからのご予定は?」
「弟子達の様子でも見に行こうと思っているよ」
「弟子がいたのですね」

 そんな事知らなかった、となまえは目を丸くする。彼女のいない隙に行っていたので無理もないと葉王は苦笑しながら返した。

「頼まれて仕方なくだよ」

 血は水よりも濃いとは言うが、それでも葉王の子供が優秀な陰陽師になるとは限らない。彼の師である忠具に倣ってそうしろと周りがうるさいので、葉王も拾った子供や素質のある者を集めては弟子にしているのだ。

「夕餉には戻るよ」
「はい、お気をつけて」

*****

 弟子の様子を見てくるとは言っても、彼らは同じ敷地内の離れた一角で修練しているので葉王が屋敷を出る事はなかった。お気をつけて、だなんて仰々しく見送られたなと思うけれど、悪い気はしない。

 離れに着いて様子を見ると、弟子達は師匠がいなくとも修練を怠っていないようだった。師に似ない勤勉な者ばかりが揃ったものだと人知れず感心する。 彼らは葉王の姿が見えた途端、作業を止めて頭を下げた。同時に頭に流れ込む彼らの想いは葉王を尊敬するものが大半だったが、中にはさっさと師を追い越して自分が取って代わろうと思っている者もいるようだ。
 やれるものならやってみれば良いさ、僕の今の地位も奪い取ったようなものだ。なんて思いながら、葉王は適度に彼らの相手をして離れを後にした。――矢先の出来事だ。

「葉王殿っ!」

 弟子のひとりが追いかけてきたのだ。彼の手には小さな包みが下げられている。

「今朝方、実家で採れた柿が送られてきたのです。良ければ葉王殿もお収めください」

 人の良さそうな笑みを浮かべた彼は弟子の中でも珍しく、貴族の出の者だった。たまたま霊を見る力をもって生まれてきただけに邪険に育てられてきたらしいが、陰陽頭の弟子に大抜擢されてからは家族にも良い扱いをしてもらえているようだ。

「貰おう、礼を言うよ」

 葉王は包みを受け取ると彼は頬を染めてはにかんだ。師を慕う心が嫌でも頭に流れ込んでくる。
 彼の事は嫌いではないが……邪険にされていたとは言え、こんなに綺麗な心が育つような環境で育ったのだな、と少し羨ましかった。

*****

 長居をした気はなかったのだが、それでも弟子の宿舎を離れる頃には太陽は傾き始めていた。母屋へ戻ってしばらくしない内に女房が夕餉を持って現れる。ちょうど良いと思って彼女にもう一人分の食事と、なまえを呼びつけてもらう事にした。ひとりで食事を採るという事ほど寂しいものはない、なんて気持ちは母上が亡くなった頃に忘れたと思っていたけれど、なまえが来て思い出してしまった。

「お呼びですか、葉王様」

 女房が部屋を出て少しすると、扉の隙間からなまえがするりと入ってきた。今朝と同じく、葉王が仕立てた若草色の十二単を着ている。囲碁盤を挟んで向かい合った時にも思ったけれど、彼女の長い髪に若草色は良く映えた。

「もう食事は終わったかい?」
「いえ、少し休みを頂いているところでした」

 それは丁度良いと葉王は用意されたもうひとり分の夕餉の前になまえを促す。彼女は遠慮がちに座り、2人の食事が始まった。

 膳の上に並べられた食物を粗方片付けた頃、葉王は傍らに置いた包みを思い出した。弟子から貰ったそれを広げると、中には丸々とした柿がいくつも転がっている。今朝方送られてきたのは本当だったのだろう、実に新鮮そうだ。

「何を広げているのですか?」
「柿だよ。なまえもひとつどうだい?」

 瞳に好奇心を宿すなまえに葉王は柿をひとつ放った。空中で2度転がして、危なっかしく受け取る。つやのある夕日色の果実は、満腹になったはずのなまえに再び食欲を起こした。けれど……片手には余るほどの大きさのこれを、どう食べれば良いと言うのだろう。食べるに食べられず、なまえは柿を気まずそうに見つめる。その心情が手に取るように分かって、葉王は笑みを漏らした。

「昔のようにかぶりついたって構わないよ」

 するとなまえは一瞬固まり、見る見る内に首から上を真っ赤に染めた。消えてしまいたいと願うほどの恥ずかしさを抑えて、慌てて首をふる。こうなってしまえば葉王にとっては格好のからかい相手になると言う事を、彼女は知らなかった。

「これ以上、見苦しい姿を見せられません!」
「見苦しい姿だなんて、いつ見せてくれたんだい?」
「それは……っ!」

 例えば再会したあの日の虐げられる姿や、その後葉王の正体を知ってはしたなくはしゃぐ姿、果ては幼い頃のやんちゃな記憶まで数えたらきりがない。しかし例を挙げて彼が覚えていなかったらと思うと殊更に恥ずかしくなるのは目に見えているので、なまえは言い返す事ができなかった。

「……台盤所で切って参りますから、葉王様の分もお渡しください」

 やっとの事で紡ぎ出したのは逃げの一手としか言い様がないものだった。
 幼い頃は活発で、あれやこれやと葉王を引っ張っていた少女が今や自分の一言に赤くなったり青くなったりしている。葉王にはそれが楽しくて堪らなかった。

「けっこう多いんだ。悪いんだけど、ついでに全部持っていってくれないか」

 葉王が隣の包みを指差すと、なまえはひとつ頷いて立ち上がる。数歩でこちらまで来て、包みに手を伸ばしたところで、裾を踏んで足がもつれた。

「あ、」
「なまえ!?」

 短い声を漏らすなまえに、葉王は咄嗟に腕を伸ばしていた。視界の端で柿が転がる。背中に畳の堅さを感じる直前、伽羅の香りに交じる甘い匂いが鼻をかすめた。抱きとめた彼女の肩は布越しでも分かるほど細く、柔らかい。
 なまえを抱える葉王と、おいしそうに熟れた柿をひとつ抱えるなまえ――幼かった頃のあの日と寸分変わらぬ体勢でいるのに――胸元に倒れ込んだ人物は、最早自分よりも背の高い少女ではなく、庇護するべき女性になったのだという事実が葉王の中に落雷にも似た衝撃を落とした。

「も、申し訳ありません!」

 長い時間のように思えて、実際は一瞬だった。すぐになまえは起き上がり、散らばる柿を集めて包みに戻す。そして今度こそ荷物を持って葉王の部屋を出たのだった。

*****

……十二単なんて、慣れないものを着ているからだわ。
 廊下を進みながら、なまえは心の中で呟く。使用人達が仕事をする場所までは距離が少しあり、その間彼女は誰の目にも触れず存分に悶々とする事ができた。
 つい先日までずっと、遊女の着る袿姿で過ごしていたのだ。旅がしやすいように足下がすっきりとしている服装とは打って変わって、この着物のなんと動きにくい事か。おかげですっかり粗相をしでかしてしまった。
 身体に触れられるのは仕事の一環だった。けれど警戒心も算段もなく硬い胸板に飛び込んだのは、初めてだ。
 だからだろうか、こんなにも胸が痛くなるのは。

 彼の分まで柿を切ってくると約束してしまった以上、すぐに戻らなくてはいけないだろう。どんな顔をして会えば良いのかと、なまえは頭を抱えずにはいられなかった。







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