あはでこのよを すぐしてよとや


 暦によって定められた仕事のある日、葉王の一日は随分と早く始まる。
 日の出より少し前、式神に起こされてからまずは自身の守護星の名を7回唱える。幼い頃大太郎にこれを教わった時は半信半疑だったが、続けるようにしてから生活は確かに好転した気がする。

 身支度を整えたらもう屋敷を出る時間だ。牛車に乗って、帝が住まう内裏まで向かう。牛の面倒を見る従者は目的地の事を考えているのか緊張で吐きそうな顔をしているが、葉王にとって帝は口うるさい名付け親でしかなかった。

 内裏ではたくさんの貴族が葉王の到着を待っていた。彼の姿を見るなり「言われた通り東の門を避けて通ったら運気が良くなった」だとか、「今日の運勢を改めて見て欲しい」だとか、様々な話題が四方から降り注いでくる。しかし葉王の態度は一貫していて、感謝の言葉には笑顔で応え、面倒な頼みには「後ほど時間があれば」と軽く受け流すだけだった。

 すがりつく貴族達を軽くいなした後は、官人と言う名の第2波が残っている。いわば部下である彼らもまた葉王に群がり、書類の添削や今日の指示などを仰ぐのだ。

「術式に関しては実際に試し、上手くいくのであればそれで良い。各自与えられた役職を続けなさい」

 微笑みを浮かべながら的確な指示を出す姿は、下に着く者にしてみれば尊敬の念を抱かずにいられないものだった。彼の期待に応えようと、皆それぞれの持ち場へ戻る。

 人の波を抜けると、やっとの事で帝の元へ辿り着いた。向こう数日の天候の予知や占いで導き出されたまつりごとの日程を告げ、内裏の周りに張られた結界に綻びがないか確認すれば今日の仕事は終わりだった。

 再び牛車に乗る頃、太陽はすっかり顔を出していた。屋敷に戻れば丁度朝食時だろう。
 牛車の窓辺についた結露をなぞりながら、ふとなまえはもう起きているだろうかと疑問に思う。今朝はこの通り少し寒いし、あの白い手足が冷えてしまっているのではないかと心配になった。

 短い秋も終わり、冬が来るのも近い。先日触れたあの華奢な肩では冬の寒さは随分厳しいものになるだろうし、それまでに彼女の為の冬支度をしなくてはならない。ついこの間まであの屋敷に女は使用人しかいなかったから、服から装飾品から全てが入り用だった。
 例えば火鉢にくべる炭ひとつにしたって、女性は香がついた物の方が良いと聞く。どの店で仕入れればが良いかと質問したら、彼女はまた申し訳なさそうに目尻を下げるだろうか。謝罪なぞ言葉にされた日には「まったくだ、本当に手がかかる」とわざとらしく言ってやろう。そうしたらなまえは悲しむのか、怒るのかが気になる。自立した彼女の事だから「それくらいの手持ちはある」と屋敷を出て行きかねない。そんな彼女の機嫌を直すのも、骨が折れそうで楽しみだ。

「――……ぉ様、葉王様!」

 従者の呼ぶ声で顔を上げると、牛車は既に麻倉邸に到着していた。いつもは退屈に思っていた移動の時間がいつの間に過ぎたのかと驚きながら、簾を掻き分けて這い出る。
 長い廊下を渡って自室に向かうと、部屋の前には丁寧にたためられた半紙が置かれていた。手に取って、開く。全て仮名で書かれた31文字は、紛れもなくなまえの筆跡だった。

 廊下に付いた朝露を指でなぞっていたら、今日は貴方が外で仕事をする日なのだと思い出しました。どんな歌にしようか一晩中考えた結果がこんな報告だなんて知れば、貴方は呆れるかしら。

 そのような意味の短歌を読むと、悪戯に笑う彼女の顔が目に浮かぶようで思わず口角を上げずにはいられない。同じ朝露で、お互いの事を考えていただなんて。思わぬ偶然に胸が弾んだ。
 そうだ。今日の仕事はもう終わったのだから、少し早めになまえを呼ぼう。毎日囲碁だけでは飽きるだろうし、今日は別の事をするのも良い。いっその事買い物に出かけてしまおうか。

「――葉王様」

 そんな事を考えていると、ふとふすまの向こう側で誰かが葉王を呼んだ。誰かと促すとそれはいつか柿をくれた貴族の弟子で、恐る恐る顔を覗かせている。

「君か。随分早いね」

 弟子の宿舎にはだいたいいつも昼前か昼過ぎに寄る事にしている。師匠としての葉王は熱血な指導をする訳でもなく、放任主義かつ完全に実力主義だった。なので彼が離れに来る少し前にやっと修行を始める者もいるし、彼も知っていてそのままにしている。

「母屋まで来てしまい、申し訳ありません。どうしても分からない字があったので、今の内に聞いておきたくて」
「いつもと同じ頃には行こうと思っていたのだけれど、待てなかったのかい?」

 ふふ、と笑うと、弟子は顔を赤らめながらも怪訝な顔をした。

「今日は昼前にはどこかの屋敷で茶会に参加されるから離れには寄らない、と、おっしゃっていたと思ったのですが……」
「あぁ…………あ〜……そうだったね」

 頭の中でここ数日の出来事を彷徨い、すぐに葉王は思い出した。そういえば、今日はとある貴族の招待を受けていたのだった。落胆で身体の力が抜けてしまわぬよう頭を軽く抱える。

「どうかされたのですか?」
「……なんでもないよ。聞きたい事があるのだろう? 入っておいで」

 手を振り中へ招けば、彼はおずおずとそれに従った。彼が持っていたのは術式の書かれた巻物だ。幼い頃の自分も同じ術を忠具に教えてもらった、と懐かしみながら文字のひとつひとつを解説していく。目の前にいる弟子は頬を紅潮させるほど熱心に耳を傾けているが、葉王自身は落胆を隠すのに精一杯だった。
……出かけるのはまた後日。それどころか今日は囲碁すら危ういかもしれない。

*****

 葉王を茶会に招いた貴族の屋敷は通りを2つ越えた場所にある。末の娘が後宮に輿入れしたとかで、朝廷にも顔が利く男だ。どうしてもと乞われ護符を渡した事があり、その時から何かとつけて屋敷に呼ばれるようになった。
 件の屋敷に到着すると、入口には既に迎えの者が待機していた。案内に従って宴会場に入れば、家主を中心にして何人かの男が集まって談笑している。

「これはこれは麻倉殿、こんなところでお会い出来るとは光栄です(鬼が視えるとは気味の悪い……機嫌を損ねて呪われぬようにせねば)
「こちらこそ、今日の日をずっと楽しみにしていました」
「麻倉殿はここの主人と懇意で?」

 適当な席に腰を下ろすと、隣の男がにこやかに話しかけて来た。同時に彼の本音が葉王の中に流れ込む。それが葉王にとって快くないものでも、何も聞こえないように振る舞うのは息をするより簡単だった。すると主人も2人の会話に反応し、横やりを入れる。

「大層ご利益のある護符を賜ったので、それから私のわがままに付き合ってもらっているのですよ(帝のお気に入りの陰陽頭だ。こやつと友人である事は、できるだけ多くの者に知らせておくに越した事はない)

 豪快で気前も良く、貴族と言うより武士に近いのが特徴の男だった。しかし心の声を聞けば、彼がいかに計算高い者かが知れる。

「それはそれは! 今度は私のところにもおいでいただきたいものだ。近頃は物騒だから(不気味なのは変わりないが、味方につければ使えるだろう)

 こうした貴族の集まりでは常に声が二重に聞こえるのが葉王にとっての普通だった。しかし慣れているとは言え、笑顔の下に隠された本音には相変わらず反吐が出る。それでも無駄な敵を作らない為にはこのような社交界に出るのは必須だし、微笑みを浮かべて適当に相づちを打っていれば終わるのだからと、葉王は穏やかに返答した。

「ええ、いずれ時間が空いた時に是非」

 本当に、よくもこう心の内と外を変えられるものだ。こいつらも……そして、この僕も。
 貴族達の本音と建前に呆れるのと同時に、大差ないほど薄っぺらな笑顔を浮かべる自身が滑稽に思えた。

―――― ……。

「それにしても来ませんなぁ……(あの男、成り上がりの癖にこの私の誘いに遅れるとは良い度胸だ)

 茶会が始まってしばらく経った頃、屋敷の主は怪訝な顔で首をひねった。招待した客は粗方集まったけれど、必ず来ると言っていた男が1人来ないのだ。
 主催者の機嫌を損ねない為か、周りの者も口々に同調する。しかし待人を心から心配する者などなく、心の中ではこの機会に乗じて自分の立場を有利にする打算ばかりが渦巻いていた。
 やはり成り上がりの者は貴族の礼儀を知らないだとか、それに比べて私はどれだけ優秀かだとか……いっその事はっきり言ってしまえば良いのに、何故みな回りくどい言葉ばかりを選ぶのか。耳を塞いだとしても流れて来る二重の声に慣れているとは言え、流石に辟易する。早くこんなところ立ち去ってなまえに会いたい。

 なまえ、か……。その名を思い出すだけで葉王の心は幾らか和らぐ。不思議だ。彼女と再会してから、自分はおかしくなってしまったようだ。
 彼女のころころと変わる表情を見る度に楽しくて堪らなくなるし、次はどんな表情を見せてくれるのだろうとあの手この手で構いたくなる。反して時折見せる翳りを帯びた表情は、どんな手を使ってでも晴れさせたいと思わせた。

 一緒にいるときだけではない。例えば朝目が覚めた時やふと一息つく時、まるでいつでも傍で隠れていて気まぐれに顔を出す猫のように彼女の姿が脳裏に浮かぶのだ。その度に一時呼吸を忘れるような、胸を締め付ける悲しみにも似たこの幸福感は、一体なんだと言うのだろうか。

「……君により 思いならひぬ 世の中の 人はこれをや 恋と言ふらむ」

 不意に、誰かが歌を詠んだ。随分昔に作られたこの歌は有名な物語から引用されたもので、この場に知らぬ者などいない。

「これは一本取られた!」

 屋敷の主人は陽気に吹き出した。いつまで待っても来ない親友に宛ててある男が皮肉を込めて読んだものだと言うこの歌は、招待した客が来ない主人にはまさにぴったりの一句だった。周りの者も釣られて笑うがしかし、その中で葉王だけは上手く作り笑いが出来ずにいた。
 何十年も前に紡がれた31文字の言葉が彼の心に溶けていく。教養として読んだ時には何とも思わなかった歌が、葉王の世界を色付かせる。

〝人はこれをや 恋と言うらむ〟

 そうか。これを、人は、
 この感情を、人は恋と呼ぶのか

「……では、かの人を待つ間、僕が余興をお見せしましょう」

 少し考えて、葉王は遂に口を開いた。視線が一斉に注がれる。物怖じなど知らぬ様子で葉王は庭に出た。そして近くの葉を一枚取り、屋敷の主人の名を呼ぶ。

「貴方が如月生まれではない事を祈っています」
「はて、それは何故ですかな?」
「如月生まれの殿方は今日の午後ひとりで過ごすが吉と、この葉に出ているからです」

 途端、主人の顔と、ついでに何人かの顔が青くなるのが見えた。やはり、と葉王は内心呟く。彼が如月生まれだと以前ちらりと聞いた事がある。

「そ、そろそろ良い時間だ。皆さん、今日はお集まり頂き感謝します」

 それだけ言って、主人はさっさと屋敷の奥に引っ込んでしまった。残された招待客達もどこかいそいそと言った様子で敷地を後にする。葉王もそれに倣い、牛車に乗り込んだ。そして上手く行った、と人知れず口角を上げる。あの占いは口からでまかせだった。そこらにある葉の形で広範囲の人々の運勢を見るなんて出来るなら、苦労はしない。

 牛の進みがいつもより遅く感じて、もどかしい。
 今はただ早く麻倉邸へ、なまえの待つ我が家へ帰りたかった。







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