ゆくへもしらぬ こひのみちかな


 今朝はあんなに短く感じた道のりが、今は永遠に続くようだった。いっその事歩いた方が速いと従者に提案したら慌てて嗜められ、ならば馬を用意せよと言えば怪訝な顔を向けられる。いつも葉王の牛車を引く彼は使用人と言えど屋敷に長く仕えている為、緊張しがちなところを除けば主人に対しても多少強く出られる人物だった。

 急ぐ気持ちを無理矢理押し込め、葉王は牛車に揺られて邸宅に到着した。御簾が上げられるなり飛び降り、一目散に屋敷へと入る。なまえはおらぬかと声を張り上げたい衝動と戦いつつ彼女の姿を探した。
 そして母屋の廊下を歩いている時、思いがけずその時はくる。

「あ、は、葉王様!?」

 急ぎ足で歩くなまえと鉢合わせたのだ。

「(何て事、もう帰ってくるなんて!?)」

 心の内で呟かれた声なき声が葉王の中に流れ込んでくる。拒絶された気がして、心臓が嫌な音をひとつ立てた。

「……何を隠している」
「なんでもございませんよ」

 不自然な笑みを浮かべる彼女の手は背中に隠されている。この僕に見せられない物があるのかと霊視の力を使ったが、なまえの心は慌てるばかりでそれがなんなのか感じ取れなかった。

「出しなさい」
「なんでもないですったら」
「この屋敷の主人は僕だ。居候の分際で、この僕に見せられない物があると言うのか!」

 自分でも驚くほど調子の強い声だった。彼女は一瞬目を丸くし、呆気に取られたついでに両手を差し出す。小さな手に支えられているのは、皿に乗った餅だった。瑞々しい椿の葉に包まれている。

「つばき、もち?」
「どうしても食べたくなって、台盤所で作り方を教えてもらっていたんです……自分で食べてみて、美味しかったら葉王様にも持って行こうと思っていたのですよ」

 いたずらがばれた幼子のような目をして、なまえはぼそぼそと告げた。思わぬ正体に葉王は拍子抜けする。

「……なぜ、そこまで必死に隠していたんだい?」
「驚かそうと思っていたんです。それに頂いた訳でもないのにわざわざ作るなんて、はしたないかとも思って」

 唇を尖らせたまま、器用になまえは言葉を続けた。伏し目がちな瞳は決して葉王を見ようとせず、さらりとした髪から覗く耳は薄く色付いている。

「は、はは、ははは……」

 全て合点がいった途端、壮大な疲労感が葉王を襲った。自分は一体、何に怯えていたのだろうか。
 一方なまえは彼の不安など少しも気付いていないようで無邪気に笑った。

「それにしても、随分お早い帰りですね。この分なら今日の試合はお預けにならずに済みそうです」

 残りの椿餅も一緒に持って参ります。本当は、少し自信があるんですよ。と嬉しそうななまえの言葉に被せるようにして、葉王は「いや、」と口を開く。

「今日は仕事が立て込んでいるんだ。悪いけど、囲碁はお預けだね」
「そう、ですか……。では餅だけでも後で届けます。仕事のお供にでも召し上がってくださいな」
「何もなまえがわざわざ持って来なくても、台盤所から持って来るよう誰かに言っておくよ」
「…………分かりました」

 あくまでにこやかに、心中を悟られないように。気が付けば、葉王はよそ行きの態度をなまえに取っていた。
 しかしその様子に、なまえが違和感をもたないはずが無く。何か言いたげな彼女を見ないように、葉王はそそくさと自室への道を進んでいったのだった。

 そしてひとり、脇息にもたれて頭を抱える。先ほどのきょとんとしたなまえの顔が繰り返し再生され、その度に自分の犯した失態を自覚した。彼女が怯えなかったのが幸いだ。怖がられていたら、どうしようもなく自分を責めていただろう。
 深く、溜め息を吐く。どうにか冷静さを取り戻して、それから「嫌われてはいないのだと、思う」と口の中で呟いた。そう、嫌われてはいないのだ。むしろ好意を抱かれている自信すらある。ただそれが男女の情愛なのか、古くからの友人を慕う思いなのか、はたまた宿と食べ物を提供する恩人への忠義の念なのか……葉王の霊視では、なまえの胸中をそこまで詳細に読む事ができない。

 それによしんば男女のそれだったとて、何かどうなると言うのか。近しい仲になればいずれ自身の力を知られてしまう。そんな時なまえに拒絶されない根拠はどこにもない。
 それに……と、葉王は顔を歪める。そもそもこの葛藤も杞憂になるかもしれないではないか。あれだけ友人として対等でいたいと言葉を並べておきながら、自分は彼女に何と言った?

『この屋敷の主人は僕だ。居候の分際で、この僕に見せられない物があると言うのか!』

……嫌われてはいなかっただろうけれど、今日嫌われたとしてもおかしくはなかった。

*****

 椿餅を作ってから5日が経った。
 あの日からなまえはひとつも歌を詠んでいない。葉王との試合についに白星がついたからではなかった。あれから、彼に一目たりとも会えていないのだ。昨日までは「仕事が忙しい」と女房が言付けに来てくれたけれど、今日は遂にそれすら無い。

 やる事がなくなり、なまえは日がな1日庭を眺める。
 そんな彼女の傍に、小さな影が近付いた。

――みゃあう

「……マタムネ」

 手を差し伸べると猫は擦り寄りながら距離を縮め、膝に乗ってくる。耳の裏をかいてやると気持ちよさそうに喉を鳴らした。

「お前も主人に放って置かれているの?」

 なまえのつぶやきに、チラリと目線だけで「お前とは違う」と言われた気がした。自分よりも長く屋敷にいるこの猫は、仕事中の主人の膝上に乗っても咎められないのだろうと思うと羨ましくすら思える。

 惰性で猫の背を撫で続けたまま、遠くを見つめてなまえは考える。
 一体、自分は何をしでかしてしまったのだろうか。

 最初は本当に仕事が忙しいのだろうと思っていた。けれど見向きもされない日が何日か続けば、どんなに鈍くとも避けられていると自覚せざるを得ない。

 居候の身で、勝手に食材を使ったから?
 それとも代わり映えの無い囲碁の試合に嫌気が差した?
 もしかしたら歌がお気に召さなかったのかもしれない。

 考えれば考えるほど、どろりとした沼の中にずぶずぶ沈んでいくように、思考は淀むばかりだった。

 にゃあ

 その内に身体を撫でる手が煩わしくなったのか、猫はなまえの膝から離れる。こちらを見て最後に鳴くと、庭の繁みへ隠れてしまった。彼の目が何かを語りかけていたようで、本当にあの子は賢いと感心ざるを得ない。

「……そうだわ」

 猫の尾に釣られるようにして立ち上がる。思い込みかもしれないが、とにかく行動あるのみと言われているように感じたのだ。
 寝殿へ向かって、直接話を聞こう。忙しいと言われたら仕事が終わるまで部屋の前で待っていれば良いのだ。

 なまえが与えられているのは屋敷の東対にある一室で、葉王のいる寝殿までは長い廊下を渡らなければならない。その後に控えた曲がり角の先で、女房たちの話し声が聞こえた。

「それにしても、あのなまえとかいう女」

 自分の名前に思わず立ち止まって耳を傾ける。彼女らの声色は決してなまえを歓迎しているものではなかった。

「あの遊女はいつまでここに居座る気なのかしら」
「本当よねぇ、葉王様が妻問いを再開して、わたくしたちもほっとしているところだのに」
「あんな何処の馬の骨とも知らない女がこの屋敷に入り浸っていると知られれば、葉王様も正妻をお迎えできないでしょうに」

 どきりと一度、心臓が嫌な音を立てた。最近会いに来てくれないと思っていたが、そうか。彼には他に訪ねる場所があったのか。
……仕方のない事だと思う。女の元へ通うのは男にとって当たり前の事だし、葉王のように身分の高い人物なら尚の事相応しい乙女を見つけなければならない。
 分かっている事なのに、それなのにこの心の底から湧き上がる、息ができなくなる想いは一体――いやだ、知りたくない。

 なまえは逃げるようにしてその場を後にする。彼女達の前を通って葉王の部屋に行くなんて事はできなかった。

 自室に戻ってすぐに半紙と筆を取り出した。墨をすり、かな文字で31文字だけ記す。そして元々少ない荷物をまとめると、なまえは静かに屋敷を後にしたのだった。







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