さしもしらじな もゆるおもひを


「葉王様っ!」

 葉王が部屋で書き物をしていると慌てた女房が部屋に滑り込んできた。何事かと目線だけで問いかける。この女房は昔から小さな事で騒ぎ立てたり気を失ったりするので、あまり本気で相手にしていないのだ。

「今しがたなまえ様の様子を見に行ったらどこにもいらっしゃらなくて、代わりにかような手紙が……」

 しかしなまえの名が出れば別だ。葉王はひったくるようにして半紙を受け取った。彼女とはもう5日も顔を合わせていない。故意にそうしているとは言え、なんとも思っていないと言えば嘘になる。
 手紙は簡素に歌が詠まれているだけのものだった。意味を読み解けばそれは『長い間ありがとう。夢のように楽しかったけれど、私はもう行きます』と言う意味より他ない。瞬間身体の芯から凍りつき、気が付けば使用人の制止も振り切り屋敷を飛び出していた。牛車を呼ぶ余裕もない。

 早く追いかけなければ、なまえがまたどこかへ行ってしまう――!

*****

 街に出てすぐに呪文を唱えて式神を放つ。なまえの魂の気配を追うように命ずれば、式神は音もなく飛んで道を示した。
『何故?』と言う思いと、『無理もない』と言う思いが心の中でぐちゃぐちゃに混ざっている。彼女に不安な思いをさせていた自覚はあるが、居心地の良い屋敷を出て行くわけがないと驕っていたのもまた事実だった。
 ふよふよと漂うように飛ぶ式神を見失わぬよう、葉王は追いかける。息を切らして京の街を抜けると、関所の手前でやっとその背中を見つける事が出来た。

「なまえッ!!」

 叫ぶように名を呼び、彼女の腕を掴む。反射的に振り返ったなまえは葉王の顔を見た途端火がついたように暴れだした。

「離してください!」
「わけを話すまでは離さない!」

 まるでどちらが大きな声を出せるか勝負しているようだった。男の大きな声で怯んだのかなまえは黙り込む。それでも尚もがく彼女を無理矢理腕に閉じ込めた。しばらくなまえは暴れ続けたが、やがて観念したように大人しくなった。葉王も弾む息が落ち着くのを見計らって口を開く。

「何故急にこんな……僕が何かしたのなら、改めるから」
「あなたの所為ではありません。全ての非は私にあるのです」

 葉王にはなまえの言っている事が分からなかった。彼女にはただ居てくれているだけで良い、自分の家のように過ごしてくれて良いと最初の日に告げていたし、今でもそう思っているのに。

「君が悪いのだと、誰かが言ったのか?」
「違います。そうではないのです」

 なまえもなまえで、歯切れの悪い自身の物言いにじれったく感じていた。
 戻って来ておくれと言う彼に、本当は身を委ねたい。葉王に再会してからの日々は夢のようで、彼の隣は天国よりも楽園だった。

 だからこそ、夢からは覚めなければならないのだ。
 自分が葉王の将来の妨げになっているのなら、居座り続けるのは恩を仇で返す以外の何でもないから。

 それに――今のままでは辛すぎる。

「だめだ、そんな理由では行かせられない」
「どうしてですか? 何故、私を行かせてくださらないのですか!?」

 力強い腕に抱かれて、なまえは息苦しい以上に胸が張り裂けそうだった。目をそらし続けていた感情が、出して出してと心の扉を叩き続ける。必死で押し込めようとする手の隙間から、想いがすりぬけた。

「……貴方をお慕いしています」

 彼女の声はか細く、心は後悔の念に溢れている。しかし葉王の心は踊らずにいられなかった。一層きつく抱きしめて、彼女の顎に手を添えて上を向かせる。揺れる瞳は涙に濡れ、震える唇に葉王の吐息が、かかった。

 しかし、

「君は僕の大切な……友人だ」

 互いのくちびるが触れる寸でのところで、葉王は自らなまえとの距離を置いたのだった。

「屋敷に戻ろう。ここは冷える」

 そのままなまえの手を引いて葉王は一歩踏み出す。
 すると今までになく強い力で腕を振り払われた。

「馬鹿にしないで!」

 叫ぶような声にはっとして、葉王は改めて彼女の顔を見据える。はらはらと涙を流す表情は幼いあの日、彼を拒絶した時のものと似ていた。しかしあの時とは違い、大きな痛みの感情が嫌が応にも葉王の中に流れ込んで彼の決心を揺るがせる。

「いずれ貴方は後ろ盾のある貴族の娘を娶るのでしょう? 大きなお家ですもの。貴方が通うのではなく、その方があの屋敷に住むことになるはず……その時貴方と寄り添う他の誰かを羨みながら囲碁を打ち続ける事も、歌を詠い続ける事も……私にはできません」

 声は次第に小さくなり、嗚咽の割合が増えていく。遂になまえは座り込み、両手で顔を覆いながら言葉を絞り出した。

「お願い……貴方の良い友人でいられる内に、行かせてください……!」

 葉王はもう我慢の限界だった。
 目の前で自分を好きだと肩を震わす彼女が、愛しくて愛しくて仕方がない。

「なまえ」

 名前を口にするだけで、呼吸を忘れて心が色付く。たった数文字でこれほど大切な響きはなかった。

 彼女の前に膝をつき、抱き寄せる。
 そして彼女の顔に手を添えると、今度こそ互いの唇を合わせたのだった。

「僕も君を愛している」

 切ない声でそれだけ続けて、葉王はなまえの身体をそっと押しのけた。

「けれどだめなんだ……僕は君を、傷付けてしまうから」

 彼女が葉王を好きだと心で訴えるほど、その想いは葉王だけに聞こえる声となり魂まで響いてくる。しかしそれは葉王が自身の異形の能力を自覚してしまう事と同義だった。

「貴方が愛してくださるのなら、私はどんな目に合っても構いません」
「違うんだ。そうじゃないんだよ……!」
「何が違うと言うのですか? そうやってはぐらかすおつもりなら私に構わないで!」

 血の巡る音が、耳元でやけにうるさい。言ってしまえばこの手の中から彼女が消えてしまうのではないか。怯えた目で僕を見て、離れてしまうのではないかという思いが心を蝕んだ。
 けれどこのまま隠して彼女を引き止めたとて、いつ暴かれるか知れないと言う恐怖と戦い続ける事になるだろう。
 ならば自分が愛した人を、今も内と外の声で好きだと言ってくれる彼女を……信じてみたいのだと、魂の奥底で叫ぶ心を、無視出来なかった。

「…………僕には、人の心が読めるんだ」

 血を吐くように呻いた声は消え入りそうなほどにか細く、けれどなまえの耳には確かに届いたようだった。
 この力を恨んだ事はない。むしろ望んで手に入れて、おかげで今の地位がある。しかし乙破千代を失った時のように、今度もまた大切な人を失うのではないかと思うと、喉が酷く乾き、じわじわと湿った恐怖が葉王の心を侵食した。

 恐る恐る顔を上げ、なまえを盗み見る。呆然とする彼女は口には何も出さなかったが、心の中では嘘だとつぶやいていた。

「(私を拒絶する為に、自分を悪者にする嘘をついているのだわ)」
「……君を拒絶する為の嘘ではない。自分を悪者にしているつもりもないよ」

 彼女の心の声をあえてなぞるように答える。それがなまえを酷く取り乱させた。

「(どうして分かるの!?)」
「言っただろう? 僕には人の心が読めるんだ」

 一切声に出さずとも成立する会話になまえは頭を殴られたようだった。驚きと、そして何よりも恥ずかしさが溢れる。必死で隠していた彼への想いも実は筒抜けだったのだろうか。…………だから、嫌気がさして私を避けたのだろうか。

「それだけは絶対に違う!……僕が耐えられなかったんだ。君を好きになるのを止められない。なのにこれ以上近付いたら、君にこの力を知られてしまう」

 顔を歪めて告げる葉王が一番傷を負っているようだった。胸がぎゅうと締め付けられ、涙に変わってなまえの頬を濡らす。こんなに怯えてまで自身をさらけ出してくれた彼を怖がることなんでできない。こみ上げてくるのは愛しさだけだった。
 そっと葉王の顔を自身の胸に押しつける。まるで母親が息子をあやすように、ゆっくりと髪を撫でた。なまえの心音が葉王を落ち着かせる。私の声が聞こえますか、となまえは心の中ででつぶやいた。葉王は頷くのを感じて、なまえは観念する。どうやら彼の言葉を信じるしかないようだ。

「私、怒っているんですよ。だって心の内が分かるのなら、囲碁に勝てないのは当たり前の事なんですから」

 彼女の声は非難じみていたが、本気でない事は霊視を使わずとも分かる。

「でも……少し、嬉しい。だって私がどれだけ貴方をお慕いしているか簡単に伝えられるという事でしょう?」

 なまえの暖かい掌は、遠い昔に怖い夢を見た時撫でてくれた母上ものと酷く似ている気がした。

「(本当ですよ。……ふふ、聞こえているのでしょう?)」
「……あぁ、聞こえているよ」

 遂に葉王の目からあめ玉のような涙が一粒零れ落ちる。かなわない、と彼は思わずにいられなかった。







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