電車で30分、30km。


 青春台から氷帝学園の最寄駅は、電車を一度乗り換えて30分くらいの所にある。
 車内で揺られている間、私はボーッと広げた文庫本のページを眺めていた。越前くんにされたキスの事で頭がいっぱいで、内容が全然入って来ないのだ。

 そうこうしている内に1ページも進まないまま目的の駅に到着してしまい、ホームに降り立つ。同じ車両にひとりもいなかった氷帝生が、別の車両から何人か出てきた。
 あれ、大きな学校なのに、なんだか生徒が少ないな。まだ早いからかな。なんて思いながら改札を通り抜けてしばらく歩くと、説明があった通り専用の駐車場に学園の送迎バスが並んで停まっていた。
 氷帝学園は東京である事を忘れるくらい広大な敷地の中に幼稚舎から大学までが散在している。その大きさ故に、目的の校舎前まで自家用車を使わない生徒の為の巡回バスが出ているのだ。学校のテーマカラーで塗装されたバスは町バスのような風貌ではなく、長距離バスに似た背の高いものだった。
 私は乗り込み、そして絶句する。車内には座席が2列しかなくて、広々としたシートは家のソファよりもずっとふかふかだった。しかもボタンひとつでリクライニングも出来るみたい。極め付けはシートの前に取り付けられたテレビ画面だ。タッチ操作でクラス毎の時間割を確認したり、各先生からの連絡を流したりも出来るようだ。

 規格外の豪華さに萎縮していたら、いつの間にかバスは発車していた。数分で外の景色に緑が増え、氷帝学園と書かれた豪奢な門扉をくぐり抜けて学校の敷地に入る。木で出来た自然のトンネルでの走行は、東京以外のどこかに訪れた気分にすらさせてくれた。

 何度か緩やかなカーブを曲がるともうひとつ門が現れ、その先に西洋風の大きな校舎が建っている。バスが止まった。高等部に到着したのだ。ここから先は車両禁止区域らしく、他にもたくさんの高級車が並んでいて、中から生徒が降りてきていた。
 みんな車で登校してるんだ……道理で、電車に乗ってる生徒が少ない筈だ。

「いってらっしゃいませ」
「えっと、はい、行って来ます……」

 運転手さんにうやうやしく頭を下げられ、申し訳ない気持ちで返事をしてバスを降りる。周りの生徒は立ち振る舞いや雰囲気が明らかに普通の高校生と違っていた。
 気後れで気絶しそうになりつつも、私はなんとか自分に気合を入れて校舎に向かうのだった。

*****

 本日最後の授業がようやく終わり、私は凝り固まった肩を伸ばす為に大きく伸びをした。今日は新年度初日だったから大半の授業が教科説明だったけれど、その内容が大変そうで、これからの事を考えると肩に力が入ってしまったのだ。

 先生がいなくなった教室も次第に賑やかになる。幼稚舎からほとんどの生徒がエスカレーター式で上がってきているだけあって、初日にも関わらず教室中には旧知の雰囲気が漂っていた。そんな空気にひとりだけ加われないのは少し寂しいような、一周回って面白いような不思議な気持ちで、まるで転校生にでもなった気分だ。
 と言うか、実際ほぼそんな扱いなんだと言う事は、時折遠巻きに投げかけられるそわそわとした視線でなんとなく感じられた。自覚する度にこちらもそわそわしてしまったけれど、まだ勇気ときっかけがなくて誰とも話せていない。
 まあ無理しても仕方ないし、友達はこれからゆっくり作っていけば良いよね。

 持ち物をかばんに詰めて、教室を後にする。今日は夕方に越前くんと待ち合わせで、それまでは時間があるから氷帝の部活動を見て回ろうと決めていた。

 特に入りたい部活がある訳じゃないんだけど、青学にいた頃は受験勉強中に校庭での部活動をよく見ていた所為か、スポーツ観戦みたいな感じで部活動を眺めるのが好きになってしまったのだ。
 それに登校バスが豪華だったり、よく分からない委員会がたくさんあったり、授業の種類が尋常じゃなかったりと、今日1日だけで色々驚かせてくれたこの氷帝学園の事だ。きっと部活も色々すごいんだろうなと思うと、好奇心をくすぐられずにはいられない。

――と思ったのは、良かったんだけど……。

「……ここ、どこ?」

 びっくりする事が起こり過ぎて、これ以上はなかなかないだろうと逆に油断してしまったらしい。この広い学園の中で、私は見事に迷子になってしまったのだ。周りに見えるのは穏やかな緑あふれる風景。木々の向こう側についさっきまで見えていた筈の西洋風の校舎の屋根が見えず、完全に右も左も分からなくなっていた。

 ど、どうしよう……。頭を抱えつつも、私はとりあえず来た道を戻る。
 きっと校舎に近付けば案内板か何かある筈……!

 けれど希望を抱いたのも束の間、気が付けば何故か森の更に深いところまで迷い込んでしまったようだった。私って方向音痴だったのかな。そんなつもりなかったんだけどなあ……。
 そろそろ不安で心細くなってくる。何でも良いから道を示すものがないかとキョロキョロしていると、木々の間を通り抜けた先に木漏れ日の優しく差し込む綺麗な場所と、そこに座って編み物をしている女の子を見付けたのだった。
 助かった……! 私は縋り付くような気持ちでその人に近寄っていく。初対面の人にいきなり話しかけるのは緊張するけれど、背に腹は変えられない。

「あ、あの!」

 スッ、と音もなく彼女がこちらを見上げた。穏やかな雰囲気の美人さんで、タレ目がちの瞳は何を考えているのかいまいち読み取れない不思議な人だ。見とれてしまいそうになって、慌てて我に返る。

「えっと、私、道に迷ってしまって。部活動の見学に行くつもりだったんですけど……」

 おずおずとようやくそれだけ伝えても、彼女は何も言わずにじっと私を見つめていた。

「あの……?」

 1秒、2秒、と無反応の時間が続いて、やがて私が不安に思い始めた時、彼女はふと立ち上がった。スラリとした体型は見上げる程に背が高く、落ち着いた雰囲気ですぐに先輩だと言う事が分かる。失礼のないようにしなくちゃ、と再び肩に力が入った。
 そんな心情を知ってか知らずか先輩はニコリと笑って私の手を取り、そのまま歩き始めてしまった。

 何が何だか分からないまま手を引かれていると、やがて木々の数が減って人の気配がしてくる。気配はすぐ賑やかな掛け声に変わり、高いフェンスに囲まれたテニスコートが現れた。先輩が足を止める。
 ぶつかりそうになって慌てて私も立ち止まると、先輩が振り返って再びニコリと笑った。そこでようやく、運動場まで案内してくれたのだと理解する。

「ありがとうございます、先輩!」

 その親切さに感動して、私は精一杯のお礼を述べた。
 けれど先輩は何故か眉を下げ、困ったような苦笑を浮かべてしまう。

「――おい、こんな所で何をしている」

 不意にフェンスの向こうから声をかけられた。振り返るとコートには入学式で代表挨拶をしていた生徒会長……えっと、名前は確か、跡部さん? がいて、私達の方向に向かって歩いてくる。

「部外者が見学して良いのは向こう側の……って、お前は」

 口ぶりからしてここにはいちゃいけないみたいだから、事情を話して先輩だけでも怒らないようにお願いしなきゃ、なんて思っていると、跡部さんは先輩の顔を見るなり少し目を丸くして「樺地」と誰かの名前を呼んだ。

「ウス」

 とても背の高い男の子が跡部さんの傍まですぐにやって来る。この人が樺地さんなのかな。タレ目がちな瞳はなんだか何を考えているか読み取れなくて、先輩に似ているな、と思っていたら、

「妹が来てるぞ。お前に何か用だろう」

 と跡部さんがまさに、先輩を示して言ったのだ。樺地さんと先輩はそのままじっと見つめ合うけれど言葉を交わさない。3秒くらい経ったところで、樺地さんは跡部さんの方を向いた。

「……この方が道に迷っていた、ので、部活の見学ならテニスコートを見せるのが良いと思った、そう、です」

 低い、ゆったりとした声だった。先輩がコクリと頷く。一言も話さずにここまで通じる事に戸惑いが隠せなかった。
 けれど跡部さんにとってはなんでもない出来事だったようで、特に驚く様子もなく「アーン?」と短い声と共に今度は私を見る。今までただ3人の様子を眺めているだけだった私は、ここへ来て注目される事に酷く緊張してしまった。

「お前は……新入生のみょうじなまえか」
「え!? ど、どうして私の名前を!?」
「アーン? 生徒会長なら全校生徒の名前を暗記していて当然だろうが。ましてや、外部編入生は目立つからな。……と言うより、樺地妹」

 当然のハードルが高過ぎる……もはや驚きの連続で心が追いついていない私を他所に、跡部さんは再び先輩に向き直った。

「みょうじは女子だ。男テニよりももっと他に見せる部活があるだろ」

 するとここまでずっと表情の変わらなかった先輩がうっすらと目を見開き、顔を真っ赤にして俯いてしまったのだった。
 それを見た跡部さんは「図星か、まぁ良い」と呆れたように口角を上げる。

「みょうじはこっちで預かるから、お前はもう帰って良いぞ。ここまで来れば他の部の活動場所も遠くないからな」

 跡部さんの言葉に先輩は未だ少し赤い顔で頷き、踵を返した。

「そう言う訳だからみょうじ、お前はそこの扉から中に入れ」

 続いて跡部さんは私にフェンスの扉を指し示す。
 ようやく当初の予定通り部活動の見学をする事が出来ると胸を撫でおろしつつ、行ってしまう先輩にもう一度だけ声をかけた。

「あの、ありがとうございました! 樺地先輩」

 すると先輩は振り返り、やっぱり何も言わずに困ったような苦笑いを浮かべたのだった。跡部さんも怪訝な表情で私を見下ろしている。2人の意味深な表情にますます首を捻るばかりだったけれど、次の跡部さんの一言で私は今日一番のショックを受ける事になった。

「何言ってやがる。そいつはお前と同い年だぞ」

 再び彼女を見てみれば、ようやく伝わったとでも言いたそうに彼女は頷いて。
 こんなにスラリと背が高くて大人びている子が同い年だなんて。

「えぇぇぇ!?」

 驚きと、勘違いからの恥ずかしさで、私は思わず大声を上げてしまったのだった。

*****

『次は青春台、青春台、お降りのお客様は……――』

 電車のアナウンスを合図に私は我に返り、慌てて文庫本にしおりを挟む。今日1日で色んな事が起こり過ぎて頭が疲れてしまったから、帰りの電車内でもやっぱり1ページも進まなかった。

 駅の出口に立つと、3月まで毎日見ていた光景が寸分違わずそこにあった。春休みを挟んでたった2週間しか経っていないのに、青学に通っていたのが遠い昔の事のようだ。
 前はなんとも感じていなかった景色に懐かしさを感じながらも、携帯電話を取り出して越前くんにメッセージを送った。

『青春台に着いたよ』

という一言と、文末には猫の絵文字も忘れずに。
 時刻は夕方で、もう部活動も終わっているのか、携帯はすぐにメッセージの着信を告げた。

『了解 校門で待ってる』

 絵文字も句読点もないシンプルな文章が越前くんらしくて、どんな顔をしてこのメッセージを打ったんだろうと想像してしまう。そうしたら、越前くんを想うといつも顔を出す気持ちが肺の中で膨らんだ。
 通い慣れていた筈の道が記憶より長く感じて、つい早足になってしまう。
 早く、会いたいな。

 青学は氷帝と違って、中・高・大の敷地が別れている。けれど大学はまだしも高等部は中等部を通り過ぎてすぐの所だから、駅からの道はほとんど変わらなかった。
 歩いている内に通行人に青学の生徒がどんどん増えて、そして高等部の校門までもうすぐだと思った、その時、

「あ、ねえ! あれって越前先輩じゃない?」
「彼女さんもいるよ!」

 いつの間にか傍にいた中等部の女の子達が声を上げたのだった。

〝越前先輩〟と〝彼女さん〟と言うたったふたつの単語に、私は恥ずかしさと照れ臭さを感じて思わず俯いてしまう。越前くんは有名人だから仕方のない事なのかもしれないけれど、いつの間に私達の関係が知られてしまったのだろう。それも後輩に。
 そんな羞恥心とは裏腹に、どうしてもお腹の中をくすぐるような嬉しさがじわじわと湧き上がってきた。……彼女さん、だって。えへへ。
 けれど、

「お似合いだよねえ」
「ねー! 2人ともテニス強いし!」

 女の子達が続けた言葉はすぐに私を凍りつかせた。どう言う事だろうと顔を上げる。彼女達は私の事なんて少しも気にしていなくて、視線を辿ると、校門の柱に寄りかかる越前くんと長い髪をみつあみにした女の子が親しげに話している姿を見つけてしまったのだった。
 心臓が一度、嫌な音を立てる。お腹をくすぐっていた気持ちが今度は石のように重たい何かに変わってしまった。早く会いたいと急いでいた足が急にすくんで、越前くんの名前を呼びたくて仕方なかった唇が今は全く震えようとしない。

 しばらくその場で動けずにいると、不意に越前くんがこちらを向いた。目が合う。猫のような瞳がぱちくりと瞬いた後、越前くんはみつあみの子に何か告げてこちらに向かって来た。

「来てたんだ。こんなとこに立ってたから、気付かなかった」
「……あ、えと、大事な話、してるのかと思って」
「別に。ちょっと時間潰してただけ」

 どうやら上手く笑えていたみたいで、越前くんは私の内心に気付く事なく「行こう」と言って先を歩き始める。私は頷いてから後ろを着いて行った。
 途中、今度ははっきりとこちらを見つめて、意外だとでも言いたげな顔をする中学生2人からの視線に居心地の悪さを感じながら。

 駅に続く道を歩いていると、段々と人通りが少なくなってくる。周りに誰もいなくなったところで、越前くんは急に立ち止まって振り返った。

「ねえ、なんで後ろ歩いてんの?」
「えっと、なんとなく、流れで?」
「流れって、なんのだよ」

 越前くんは呆れたように喉の奥で短く笑う。そして私の手を取り、軽く引き寄せた。

「どうせなら隣歩いてよ」
「……うん」

 頷いたら、越前くんは満足げに目を細めた。私達は手を繋いだまま再び歩き始める。

……ズルいなぁ。
 思わず心の中でそう呟いてしまった。だってさっきまであんなにモヤモヤしていたのに、右手が越前くんの左手と繋がってるだけで心が幸せで満たされて、もう全部どうでも良くなっちゃうんだもの。
 知らない子に勘違いされたくらいでくよくよしてたら、きっと越前くんの隣になんていられない。私を選んでくれたのは他でもない越前くんなんだから、その事に自信を持たなきゃ、だよね。

「今日、予定より遅かったじゃん」
「部活動の見学に行ってたの。あ、それでね!」

 嫌な気持ちが吹っ切れてしまえば、私の口はまたいつものように勝手にペラペラと動き出した。堰を切ったように話す今日の出来事は、氷帝の規格外の凄さと、道に迷って助けてもらった事、それに生徒会長に会った事。ちなみにその後軽く男テニを見せてもらった後は他の部が活動している場所まで樺地さんが案内してくれたから、主な運動部の見学が出来た事。

「生徒会長さんがすごいの。全校生徒の名前を覚えてるんだって! 男テニだから、もしかしたら越前くんも知ってる人かも。跡部さんって言うんだけど」
「えっ、あの人に会ったの?」

 跡部さんの名前を出した途端、今まで控えめな相槌を打つだけだった越前くんが素っ頓狂な声を上げた。

「やっぱり知ってる人?」
「試合した事ある」
「試合まで!」
「そう。勝ったけどね。て言うか、あんな強烈な人は忘れられない」

 越前くんは心なしかげんなりしていて、普通の試合相手じゃなかったのかな? とついつい邪推してしまう。そして今日の跡部さんと氷帝男子テニス部の練習風景を思い出して、なんとなく納得してしまった。200人以上が同じ場所で散らばって練習する風景は圧巻だったから。

 それから私達は駅前のハンバーガー屋さんに入り、他愛ない話をして過ごした。
 越前くんは最低限の言葉しか話さないし相変わらずクールな調子だけれど、それでも高等部に進学した先輩と再会出来た事を話してくれる姿は嬉しそうで、いつまでも聞いていたい気持ちになってしまう。

 けれど日が暮れる頃、ハンバーガー屋さんから出て向かいの改札に到着してしまえば、それが別れの合図だった。
 もう、時間切れになっちゃった。
 また明日の朝になれば一緒に登校出来ると思いつつ、その後当たり前のように同じ学校に行けない事実が心にのしかかる。青学以外の道を選んだのは自分自身だけと、新しい環境への不安はたった1日で信じられないほどの打撃を私に与えていた。

「……まだ、一緒にいたいなあ」

 あ、しまった。と思う頃には遅過ぎて。喉から零れてしまった心は、声になってしっかりと越前くんに届いてしまったようだった。
 無言で手を取られ、広告の貼られた柱の影に誘われる。周囲からは死角になっているそこに背中を預けたら、越前くんの両腕が壁に手をついてあっという間に顔が近付いた。思わず目を瞑ると、唇に軽い感触が降って来る。

「……その発言は、ズルい」

 俺も帰したくなくなる。
 耳元で囁かれた声が、脳みそを甘く痺れさせる。もっとと強請る本心と、こんな所で恥ずかしいと訴える理性で身体がバラバラになりそうだ。
 そっと瞼を開けると、想像よりもずっと近い場所で越前くんの稲穂のような瞳とぶつかった。瞬間、理性が本心を打ち負かして、今すぐ逃げ出したいくらいの羞恥心が意識の全てを支配する。
 越前くんの胸元を押して、腕からすり抜けた。我に返った今ではもう彼の顔を見る事なんて出来ない。

「な、なんてね! じゃあ、また明日!」
「ん、また明日」

 越前くんの言葉を背中に受けながら、私は逃げるように改札を抜けたのだった。







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