〝すぐ隣〟が苦しいから、1メートル。


 氷帝に進学してから1週間が経って、放課後に越前くんの部活が終わるまで時間を潰す事にも慣れてきた。駅前のファーストフード店で過ごすこの時間は毎日出される宿題をこなすのにちょうど良いし、早く終わったら本を読む時間もある。氷帝の図書館はやっぱり規格外に大きくて物語本も充実してるから、読みたい本がたくさんあるのだ。
 制服のポケットで震えを感じ、私は携帯電話を取り出した。青学の部活が終わる時間に合わせて鳴るようにしていたアラームだ。文庫本をかばんにしまい、ファーストフード店を後にする。今から青学へ向かえば、校門より手前で越前くんと鉢合わせる事が出来る。

 早く会いたいな、今日は学校でどんな事をしたんだろう。と考えながら歩いていると、自然と足が速く動いてしまうのもいつもの事。お互いおしゃべりが大得意ってわけじゃないから、実は無言の時間の方が長いんだけど。それでもこの帰り道の時間が毎日楽しくて、でもまだちょっとだけ照れくさい。

 気を抜くとスキップでもしてしまいそうなくらい浮かれる自分を抑え、青学の生徒が次第に増える道を流れに逆らっていく。
 越前くんに会えたのは予想通り校門より少し前の所で、けれど予想と違ったのは、彼が松葉杖をついて、そしてひとりではなかった事だ。

「越前くん!?」

 慌てて駆け寄る。越前くんは杖の他に何も持っていなくて、代わりに隣にいた三つ編みの女の子がかばんをふたつ抱えていた。彼女と目が合う。軽く頭を下げられたので私も同じようにしてから、すぐに越前くんに視線を戻した。

「何があったの?」
「ちょっと捻挫した。大した事ない」
「松葉杖までついて大した事ないって……!」
「親が迎えに来れないから、大事をとって押し付けられただけ。みんな大袈裟なんだよね」

 越前くんは呆れたように溜息をつく。大丈夫だからともう一度念を押されてしまったら、心配は残るけれどこれ以上何も言えなかった。
 はらはらしながらも黙っていると、越前くんは三つ編みの子に向かって杖を持っていない方の手を差し出す。

「じゃあ竜崎、カバン返して」
「え、でもリョーマくん、私を庇って怪我したのに……」
「良いから。コイツもいるし」

〝コイツ〟と言いながら、越前くんが視線だけで私を示す。

「あの、越前くんのカバンなら私が預かります」

 三つ編みの子が私を見てハッと息を飲んだ。

「あ、えっと、じゃあ……」

 彼女から大きなスポーツバッグを受け取る。いつも越前くんが持っているそれは想像よりも重たく、こんな物をなんでもないように背負ってるなんて男の子ってすごいなあ……と、場違いな感心を抱いてしまった。

「竜崎はもう帰りなよ」
「あ、うん。バイバイ、リョーマくん、と……」
「えと、みょうじなまえって言います」
「あ、私竜崎桜乃です。あの、みょうじさんも、さよなら!」

 手を振って別の方向へ進む竜崎さんに私も小さく振り返す。
 竜崎さんが先の角を曲がっていなくなったところで、「俺たちも帰ろう」と声がした。相槌を打ってから歩き出そうとすると、今度は私に向かって越前くんが手を差し出す。

「カバン、返して」

 越前くんの手から逃げるように、私はスポーツバッグを抱え込んだ。

「だめ。私が持つから、越前くんは気を付けて歩いて」
「何、心配してくれてんの?」

 越前くんはニヤリ、と左の口角だけを上げる。これはからかっている時の表情で、普段なら翻弄されてしまうんだけど、今日はそれどころじゃない。

「するに決まってるよ!」

 思っていたよりも大きな声が出てしまった。越前くんは目を丸くしてこちらを見ている。私はすぐに謝罪の言葉を口にした。ごめんね、怒ってる訳じゃないの。

「最初は大怪我したのかと思ってびっくりしたし、今だって、テニスしばらく出来なくなっちゃうのかな、とか、考えてるよ……」

 言っている内になんだか泣きそうな気持ちになってきた。越前くんはテニスが大好きだから、テニスをしている越前くんを私が大好きだから、出来なくなってしまうのは悲しいに決まってる。
 私の心情を知ってか知らずか、越前くんは呆れたように小さな溜息をついて表情を緩める。

「医者には全治2週間って言われたからその間は安静にするけど、本当に、大した事ないから」
「……本当に?」
「今までだって色んな怪我してきたし、記憶喪失にもなった事ある。それに比べたら捻挫なんて日常茶飯事」
「記憶喪失!?」
「そう。言わなかったっけ?」
「聞いてないよ」

 越前くんが語ったのは中1の時の話だった。全国大会中に事故で頭に衝撃を受けて、少しの間記憶が全て無くなってしまったらしい。テニス部の先輩や他校の人が記憶を取り戻すのに協力してくれて、やっと思い出したんだって。

「テニスのルールすら思い出せなくて、性格も違ったらしいし……あの時の自分はもうあんまり思い出したくない」

 げんなりする姿が可愛らしくてつい笑いを零してしまう。
 私、どうやら弱った姿の越前くんが好きみたい。おかしいのかな……?

「でも思い出せて良かった。先輩さん達もすごいね。……私だったら越前くんに思い出してもらえる自信、ないかも」
「俺も、なまえの事思い出せるか分かんない。サーブの打ち方すら忘れてた訳だし」
「だよねー……」

 自業自得だけれど、いざ本人にまで肯定されるとそれはそれで傷付くものがある。けれど越前くんは落ち込む私を見て、「冗談」と再び口角を上げた。

「もし俺がまた記憶喪失になっても、なまえはいつも通り本を読んだり、変な事を口走ったりしてれば良いよ」

 どうしてそんな事を言われたのか分からなくて頭を捻る。記憶喪失なんて再発するかもしれないし、越前くんに忘れられたまま生きていける自信はない。
 けれど越前くんはなんでもないように、一言。

「そしたら多分、またなまえの事好きになる」

 私の不安も、心配も、全部消してしまう魔法をかけるのだ。

「……越前くんって、本当ズルい」
「なにが?」
「言わない」
「何それ、なまえの方がズルいじゃん」
「そんな事ないもん」

 赤くなってるだろう顔を見られたくなくて、不貞腐れたフリをしてそっぽを向く。なのになんの反応も貰えなかったから気になってすぐ振り向くと、越前くんは全部分かってたなんて言ってそうな余裕のある表情だった。
 やっぱり、敵わないな。
 頑なな気持ちが解れてしまえば、笑い声は自然と漏れてしまった。

―――― ……。

 越前くんはいつも通り駅前まで送ろうとしてくれたけれど、かばんを人質(モノだけど)にして断り、今日は私が家まで送っていくと言い張った。渋々ながらも案内された家は立派なお寺で、越前くんの家の正体にびっくりしつつ境内に入る。
 玄関にカバンを下ろした所で、「悪いんだけど、親父に見つかる前に帰って。アイツ本当に面倒くさいから」と言われたので大人しく駅までの道を戻った。

 道すがらひとりになると、一歩毎に考えないようにしていた事をじわじわと思い出してしまう。長い三つ編みが、記憶の中で揺れた。

〝「でもリョーマくん、私を庇って怪我したのに……」〟

 すごく、可愛い子だったな。どっかで見た事あると思ってたんだけど、そう言えば、男テニの大会では必ずあの子が応援に来てたっけ。
 あ、そっか。一年生の頃から越前くんと仲が良いって噂だったあの子、だ。

 庇ったって何があったんだろう?
 リョーマくんって呼ぶくらい、やっぱり仲良いんだな。

 考えれば考えるほど見えない水に沈められていくみたいで、息が出来なくなる。
 悪い思考ほど止められはしないもので、しかもどんどん飛躍していった。
 記憶喪失の話も知らなかったな。越前くんと話し始めたのは2年生からだから仕方ないんだろうけど、私だけが知らない越前くんがたくさんいる事を突きつけられているみたいだ。
 それに何より、

「……キス、今日はしてくれなかった」

 毎日してくれていたのに、今日はしてくれなかった。あれだけ恥ずかしかった事がなかったらなかったで寂しいなんて、私ったらいつの間にこんなに我儘でイヤラシイ子になっちゃったんだろう。

 でも、どうして今日は…………竜崎さんと、何か関係があるの?
 どうしよう。私、今すごく嫌な事考えてる。

 自覚して、ハッと我に帰った。こんな事を考えるのは、もうやめよう。
 私は邪な考えを振り払うよう左右に頭を振ってから、走って駅に向かったのだった。







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