すぐそこの角を曲がった所、10メートル。


「あの!」

 唐突に声をかけられ、私は戸惑っていた。
 それは青学の門の前で越前くんを待っていた時の事。昨日脚をくじいた越前くんが心配で、今日は部活終了のメッセージを待たず早めに来ていたのだ。
 目の前には、懐かしい中等部の制服を着た女の子が2人。目尻を吊り上げまっすぐ見つめてくるその瞳から、敵意が痛いくらいに伝わってくる。けれどそんな感情を向けられる心当たりなんてある訳がなくて、私はたじろぎながらも理由を尋ねるしかなかった。

「えっと、何か……?」
「越前先輩には彼女がいるんです。付き纏うの、やめてもらえませんか!」

 すると返ってきたのは思いも寄らない訴えだった。
 越前先輩って言うのは越前くんの事で、越前くんの彼女は私の筈で、なのに私は今『彼女がいる人に付き纏うな』って言われてて……。
 どうしてこんな誤解が生まれてしまったのだろう。と疑問が浮かぶ中、数日前の出来事が頭の中のはてなを掻き分けて浮かび上がる。

〝「彼女さんもいるよ!」〟
〝「お似合いだよねえ」〟
〝「ねー、2人ともテニス強いし!」〟

 そっか、そうだった。あの時偶然聞こえた話では、越前くんのお似合いの彼女として登場したのは竜崎さんだったっけ。だからこの子たちの中で私は、2人を邪魔する第三者なんだ。
 早く、越前くんの彼女は私ですって、ちゃんと説明しなきゃ。頭では理解しているのに、いつも勝手に動き出す口からはなんの言葉も出て来ない。
 不意に声をかけられたのはそんな時だった。

「――あれ、みょうじさん?」

 弾かれたように振り向くと、竜崎さんが校門から顔を覗かせている。制服を着て荷物を持って、ちょうど下校するみたいだった。

「竜崎先輩!」
「2人まで……こんな所でどうしたの?」

 すると私よりも先に反応したのは声をかけてきた2人の子で、竜崎さんは2人に微笑みかけた後、私に中学の頃の部活の後輩だと説明してくれた。

「みょうじさん、この子たちと知り合いだったんですか? あ、同じ委員会だったとか!」
「いや、初対面だと、思います」
「竜崎先輩、私たち悔しくて!」

 私と竜崎さんの間に割り込み、2人が竜崎さんに詰め寄る。頭にはてなを浮かべながらも、竜崎さんは人好きしそうな表情で2人が話を続けるのを待っていた。

「竜崎先輩と越前先輩はお似合いのカップルなのに、他校生のこの人が邪魔するから……」
「『竜崎先輩が彼女なら』って越前先輩の事諦める子だっているのに!」
「私とリョーマくんが、え、えぇええ!?」

 2人の言い分を聞いた途端、竜崎さんは目を丸くして声を上げた。傍から見ても分かるくらい彼女は慌てふためいていて、私と2人の間で目まぐるしく視線を反復させている。

「えっと、誤解だよっ! 私とリョーマくんは」
「誤解ってなんですか!? この人が先輩の邪魔をする事の何が誤解なんですか!?」

 竜崎さんが何か言いかけるも、後輩たちは畳み掛けるように食い下がった。〝この人〟と言う単語と共に私は指をさされる。勢いに驚きつつも居心地の悪さを感じていると、校門から次々と出てくる生徒に混ざって先生らしき大人が出てきた。

「校門で生徒が言い争いをしていると聞いたんだが……中等部の生徒に他校生まで、ここで何をしているんだ?」

 途端、中学生達はギクリと顔を歪ませて「な、なんでもないです!」と首を振る。私も騒ぎを起こしたくなかったから、同意と挨拶を兼ねて深めに頷いた。

「ないなら早く中等部に戻りなさい」

 先生はやれやれと溜息を吐きながら促すと、中学生達は慌てて走りさっていく。振り向きざまに何か言いたげな視線を投げつけられ、私をたじろがせた。
 2人がいなくなった後、先生は私の制服を見て「氷帝学園……」とつぶやきながら竜崎さんに向き直る。テニス部の知り合いなのかと尋ねられ、ぐるぐると視線を泳がせていた竜崎さんはこれ幸いと何度も頷いて同意した。

「は、はい! えっと、その、練習試合の打ち合わせで……!」
「他校生が校内に入るなら、職員室で申請をしていきなさい。部活動時間も終了しているし、帰りもあまり遅くならないようにな」

 先生は納得したらしく、それだけ言って校内に戻っていった。
 そして……残された私たちはしばしの間、無言のまま。微妙なこの空気をどうしたら良いのか分からず、かと言ってこのまま黙っているのも不自然だと思ってとりあえず声をかけてみる。

「「……あの、」」

 すると竜崎さんも考える事は同じだったのか、私たちの声が見事に重なった。びっくりして竜崎さんを見ると、向こうも同じようにパチクリとした目をこちらに向けていて。気が緩んでしまった私は、苦笑とも取れる乾いた笑い声を零した。
 竜崎さんも、眉尻を下げて優しい顔で笑ってくれる。空気が少し明るくなった。

「男テニまだ練習してたし、リョーマくん多分もうちょっとかかると思うんです。良かったらあっちで少しお話ししませんか?」

 竜崎さんの言う通り、さっきから校門を通る生徒の中にテニスバッグを持った男子は現れていない。折角の提案を断るのも感じ悪い気がして、私は竜崎さんに着いて行く事にした。
 案内された先は近くの校舎の隅で、花壇とベンチが数個設置されている。その内のひとつに並んで腰を落ち着けたら、意外と静かな環境だと言う事に気が付いた。部活後の喧騒が小さな音でしか聞こえず、私たちも何か共通の話題があるわけじゃないから、再び居心地の悪い空気が流れ始める。
 そうすると頭の中では自然とさっきの事を思い出してしまうわけで。今こちらから口を開いたら、何かいじわるな事を言ってしまうんじゃないかと怖かった。

「みょうじさんって、いつからリョーマくんと付き合ってるんですか?」

 そうしたら、先に話しかけてくれたのは竜崎さんの方で。

「えっと、中3の冬から、です」

 無言の空間がなくなった事に肩の荷が降りつつも、私は竜崎さんの一言に気分が沈んでいくのを感じた。
……また〝リョーマくん〟って呼んだ。心の中で意地悪な自分の声がそう指摘して、まるで鉛を飲み込んだみたい。さっきは何も言えなかった意気地なしの私の口がこの時ばかりは勝手に動いて、「結構最近なんですね」と無邪気に相槌を打つ竜崎さんに問いかけていた。

「竜崎さんはいつから越前くんと仲が良いんですか?」
「仲……良いのかなあ」

 よっぽど人が良いのか、苦笑する竜崎さんは私の声に含まれた棘にも気付く様子がない。
 彼女の続けた話によると、竜崎さんのおばあちゃんと越前くんのお父さんが元々知り合いらしい。けれど初対面の時はお互いに気付かなくて、それが青学に入学する数週間前だったとか。

「私が違う道を教えた所為で大会に出られなかったのに、リョーマくんったら全然私のこと覚えてなくて」
「……越前くんらしい」
「ですよね!」

 楽しそうに昔の記憶に思いを馳せる竜崎さんの隣で、私はますます惨めな気持ちになっていた。そんなに早くから知り合いだったんだ。それも家族ぐるみの付き合いだなんて、距離が近いのも無理はない。

「リョーマくんってテニスはすっごく強くてかっこ良いのに、結構抜けてるところもあって……私、そんなリョーマくんが大好きなんです」

 胸をナイフで貫かれたような気分だった。やっぱりそうだったんだ、と自嘲気味にひとりごちる。越前くんはみんなの王子様だもの。1年生の頃から傍で見てきた竜崎さんが、むしろ彼女じゃない方がおかしかったんだ。

 それでも……痛いくらい拳を握って、泣いてしまいそうな自分を奮い立たせる。
 やっぱり、私は……!

「……渡せません」
「え?」
「私じゃ釣り合わないのは分かってます。でも私も、えち、」

〝ぜんくん〟と言いかけて、止まる。私、負けたくないから、〝越前くん〟じゃだめ。

「リョーマの事、大好きだから……絶対渡さない」

 言ってしまった。
 後悔しちゃだめだ、という気持ちを込めて、強がって胸を張る。怖くて閉じていた目を開けると、その先にいる竜崎さんは――キョトンと目を丸くしていた。

「えっと、なんの話、ですか……?」
「えっ」

 想像すらしていなかった反応に、思わず間抜けな声を零してしまう。するとようやく合点がいったのか竜崎さんが息を呑んだ。

「ご、ごめんなさい! 私すごい勘違いさせるような事言っちゃった……!」

 竜崎さんは今までとは比べものにならないくらいパニックになっていて、あわあわと何かを話そうとしては口を閉ざし、またすぐにどうにか言葉を繋ごうとしている。

「あの、全然そんなんじゃなくて! えっと……そう! 私とリョーマくんは友達! 友達なんです! リョーマくんの事は好きだけど、全然好きじゃないって言うかっ!」
「えっと……え……?」

 そんな彼女の話が、実は同じように狼狽えている私に伝わる筈もなく。〝何が起こっているのか分からないけど、とりあえず自分が何か間違った事を言ってしまった事だけは分かる〟と言う状況は私を余計に混乱させ、私たちは2人しておろおろと挙動不審に陥っていた。

「ふぇ〜〜ん、もう、どうやって説明したら良いの〜〜っ!?」

―――― ……。
 やがて少しは落ち着いてお互いを気遣えるような心境に至った時、竜崎さんはゆっくりと説明してくれた。

「確かに中1の頃は『好きなのかも』って思ってた時もあったんです。けど、ちょっと違うって気付いて……私きっとリョーマくんになりたかったんです。テニスが強くて、自信満々で、私にないものをたくさん持ってるリョーマくんになりたいって、ずっと憧れてた」

 竜崎さんの言ってる事、痛いくらい理解できた。私も片思いしてた頃……ううん、その前よりもずっと、自分の好きな事に一生懸命できらきらと輝く越前くんに憧れてたっけ。

「分かる……私もそう思った事あります」

 もちろん、憧れて、尊敬しているのは今も変わらないけれど。
 私の相槌に竜崎さんは頷いて更に続けた。

「リョーマくんと出会ってテニスを始めて、少しは強くなれたのかなってようやく最近思えるようになってきて……今ね、とても楽しいんです! リョーマくんと友達になれて本当に良かったって。だから安心してください」

 あと、変な事言っちゃって本当にごめんなさい。と竜崎さんは頭を下げる。
 ようやく彼女の心の内が分かって、私はほっとすると共になんて大変な事を言ってしまったのだろうと自責の念に駆られていた。

「あ、わ、私の方こそすごく嫌な事言っちゃって、本当にごめんなさい!」

 頭を下げる。するとすぐに竜崎さんの手が肩に触れて、「気にしないでください」と言われた。顔を上げると、竜崎さんは花が咲いたような微笑みを浮かべている。

「それより私、みょうじさんともお友達になりたいってずっと思ってたんです。リョーマくんが大好きになっちゃうくらいの人だから、絶対良い子なんだろうなぁって」

 まっすぐな物言いに頰が熱くなるのを感じた。そんな風に思ってくれていたなんて。

「私の方こそ、ずっとどんな子なんだろうなって気になってた」

 竜崎さんの事は前からなんとなく知っていて、男テニの大会で見かけた時も可愛いくて、きっと良い子なんだろうなって思ってた。その気持ちの中に嫉妬が少しも無かったと言ったら嘘になるけれど、きっと今なら素直に向き合える。
 私は竜崎さんの手を取った。

「……友達になってくれますか?」

 竜崎さんが「もちろん!」と手を握り返してくれて、気が付いた。掌にマメが出来てる。
 この手、知ってる。自分の好きな事にひたむきな、越前くんと同じ手だ。

「私たち同学年だし、良かったら桜乃って呼んで?」
「桜乃ちゃん?」
「うん」
「えっと、私は……」
「なまえちゃん、だよね」
「うん、桜乃ちゃん」
「なまえちゃん」

 名前で呼ぶのも、呼ばれるのも、くすぐったくて心がむずむずと浮き立つ。えへへ、と自然と口から笑いが零れれば、手を握ったままの桜乃ちゃんからも「えへへ」と聞こえた。ますますくすぐったい。
 もうどれだけの時間が経ったんだろうと頭によぎったのは、そんな時だ。

「いけない、私そろそろ戻らないと……!」
「あ、そうだったね。男テニの部活もきっと終わってると思う」
「またね、桜乃ちゃん」
「うん、なまえちゃん!」

 青学に到着したばかりの頃とは一転、スキップでもしたいくらいのご機嫌で私はその場を後にする。越前くんの事を待たせているかもしれないと駆け足で校門への道を急いで校舎の角を曲がった、その時だった。

「……終わった?」

 壁にもたれかかる越前くんの姿を発見したのだ。

「え、越前くん!? どうしてここに?」
「小坂田に呼ばれた」

 聞き慣れない名前に疑問を浮かべると、越前くんは無言で人差し指を宙へ伸ばした。辿ったら、さっきまで私がいた場所に今は別の女の子が座っている。慌てふためく彼女は桜乃ちゃんの話を聞いて胸を撫で下していた。その様子に私も安堵し、帰ろうと促す越前くんの隣に並んで学校を出る。今日の越前くんは松葉杖こそついてはいなかったものの、片足を庇うような歩き方をしていた。

「越前くん、かばん持とうか?」
「いらない」
「でも……」
「今日は杖もないし、持ってもらう理由がない。ていうか、呼び方戻ってるんだけど」

 越前くんは唇を尖らせ、分かりやすく不満そうな顔をしている。なんの事か分からず首を傾げていたら、「さっきは『リョーマの事大好きだから』って、名前で呼んでくれたじゃん」と続けられた。思わず目を見開く。

「どこから聞いてたの!?」
「なまえが竜崎と俺はいつから仲が良いのかって聞いてた辺りから」

 まさか桜乃ちゃんとの会話がほぼ最初から聞かれていたなんて思わなくて、ただただ恥ずかしさで消えてしまいたかった。よくよく思い出せば、どさくさに紛れて大好きなんて。私ったらなんて大それた事を言ってしまったんだろう。

「実は前から言おうと思ってたんだよね。名前で呼んで欲しいって」

 ほら、と促されて、私は意を決して口を開いた。

「リョーマ……くん」
「さっきと違うじゃん」

 私なりにかなり頑張った方だと思うのだけれど、それでも越前くんは満足してくれなかったようで。

「リョ、リョー……越前くん」
「遠ざかってる」

 越前くんの声に苛立ちが混ざったけれど、仕方ない。さっきは本人を前にしてなかったし、何より負けたくないって思いでつい名前を呼んでしまったけれど。

「だって」
「なに?」
「……恥ずかしいよ」

 正直なところ、普段は越前くんって呼ぶだけで緊張しているというのに。
 越前くん、と呼んだら、またあの猫のような瞳でまっすぐに見つめられて、捕らえられてしまう。越前くん以外何も考えられない魔法にかけられてしまうんだと分かってるから、ドキドキしてしまうのに。

「竜崎の事は簡単に呼べるくせに」
「桜乃ちゃんは別だもん」
「……分かった」

 越前くんは大きな溜息をついて呆れたように首を振った。失望させてしまったかもしれないと少し悲しかったけれど、解放された安堵の方が大きい。
 ごめんね、ゆっくりになるけど、頑張るから。なんて考えていた私は、次に来る言葉がどんなものかなんて想像すらしていなかったのだ。

「これから越前くんって呼ばれる度にキスするから。どっちが恥ずかしいかはなまえが考えて」
「……人前でも?」
「人前でも」

 越前くんはニヤリと左の口角を上げると、射抜かれてしまいそうなくらい強い瞳でこちらを見て言い放った。その視線にいつものごとく耳まで熱くなるのを感じながら、大変な事になってしまったと私は内心頭を抱えるのだった。







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