改札の中と外、unknown。
リョーマが青学の高等部に入学してから1ヶ月弱が経った。ついこの間まで部長として部を引っ張っていたのにまた一番下から始めるのは少し違和感で、それでも見知った先輩たちに再び迎え入れられる事に悪い気はしない。それに、あんなに時間を取られていた部長業務に煩わされずに練習ができるのは純粋に楽しいという点もある。しかも捻挫が完治したという事で、今日からフルでテニスができるのだ。リョーマが中1だった頃のレギュラーが半数ほどいなくなっている事には一抹の寂しさを覚えるけれど、高校から入ってきたというメンバーもなかなかの強者揃いで、早く全員に勝利したいと思うリョーマとしては願ってもいない事だった。
そして部活の時間はあっという間に過ぎ、帰り支度をする頃。部室ではそこらかしこで明日からゴールデンウィークの話題に花を咲かせていた。
けれどリョーマは自分から会話に参加しようとはせず、さっさと着替えを済ませる。早くしないとまたなまえを待たせる事になってしまう。
「あ、待てよ越前!」
しかし、そんなリョーマの肩を掴み、阻止する人物がひとり、桃城だった。
「なんスか、桃先輩?」
俺、急いでるんスけど、と目線で訴える。しかし桃城は気にする事なく続けた。
聞けば桃城はゴールデンウィーク中、菊丸がバイトをしている商業施設に遊びに行く予定なのだと言う。菊丸が中学卒業以降テニス部に所属しておらず、高校生活はもっぱらバイトをして過ごしているらしいという事はリョーマも以前から知っていた。
「越前も一緒に……って、越前は彼女ちゃんと過ごすのか」
羨ましいぜ、と茶化すようなトーンで桃城は付け加えた。リョーマに恋人がいる事は男テニの中では周知の事実だった。何せ、放っておけばいつまでのコートにいるようなリョーマが、今ではいそいそと部活を終わらせて待ち合わせをしているのだから。
「泊まったりとかしちゃってさぁ……越前もついに大人の階段登っちまうのか……」
「ちょ、俺で勝手な妄想しないで欲しいんスけど!」
遠くに目線をやる桃城にむかってリョーマは慌てて牽制した。だいたい、ゴールデンウィーク中も毎日部活があるのは桃城自身も知っているではないか。その事実だけでもなまえと泊まりでどこかに行くだなんて非現実的だ。
それに菊丸が働いている場所に行ってみたいのはリョーマも同じだった。
「菊丸先輩の所、どうせどっか1日部活帰りにとかっスよね。俺も行きたいっス」
「お、良いぜ。お前がデートしない日にでも行くか」
デートくらいはするだろ? と相変わらずニヤニヤしながら問いかける桃城を前に、そういえばとリョーマは頭を捻った。毎日一緒に登下校しているから気にも留めなかったけれど、付き合い始めてからちゃんとどこかへ出かけた事は一度しかなかったのだ。
「特に約束してないっス」
「は!? おいおいマジかよ」
「なんスか」
「彼女ちゃん、かわいそうじゃね? 大事にしてやれよ」
「余計なお世話っス」
明らかな同情にムッとした。会話はこのくらいで十分だろうとリョーマは鞄を背負う。
「とにかく、俺もう行かないとスから、日程あとで送ってください」
そして桃城の返事も待たずに部室の出口へと向かった。背後では桃城がリョーマの心情を悟ってからかうような苦笑いしているをしているのも知らずに。
校門を出て大通りに向かうと、なまえは既に反対側のバス停に座っていた。やはり他校の生徒が青学の校門にいるのは目立つようで、少し前に教師に注意された事もあってなまえとの待ち合わせ場所を変更したのだ。
横断歩道を渡ってバス停に向かう。なまえの傍らには竜崎がいて、二人して何やら楽しそうに話し込んでいた。しばらくしない内にバスが到着して、竜崎がバスに乗り込む。なまえが手を振ったタイミングでバスが出発した。なまえが顔を上げて、リョーマと視線が合う。そしてすぐにパッと顔を明るくさせた。
「お疲れ様、リョーマ!」
「ごめん、待った?」
「全然だよ。さっきまで桜乃ちゃんがいたの。このバス停から通ってるんだって」
「知ってる。見えてた」
それから二人は他愛ない話をしながら青春台の駅へ向かった。リョーマの家は青学から歩いて行ける距離にあるけれど、なまえは電車で数駅移動しなければならない。氷帝から彼女の最寄りの間に青学があるとは言え、こうして毎日リョーマの元へ来てくれるなまえはやっぱりお人好しだなとリョーマは少しだけ呆れてしまうのだった。……まあ、そのおかげでこうして一緒に過ごせる時間を確保できるのは、嬉しい以外のなんでもないのはさておき。
けれど、今日は金曜日で、土日になるとそんな時間もしばらくはお預けだ。それに週末が過ぎてもその先に待っているのはゴールデンウィーク。先ほど桃城に言われるまでは思いつきもしなかったけれど、考えてみればしばらくこうして登下校する事もなくなるのだ。そう思うと、リョーマは急にそわそわと落ち着かなくなった。
「……そう言えば、さ」
駅に辿り着く少し前という所で、リョーマは意を決して口火を切る。付き合う前でさえなまえを誘う時に身構える事なんてなかったのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。
「ゴールデンウィークって、なんか予定あるの?」
「ゴールデンウィーク? 特にないけど……」
「けど?」
「中間テストの勉強しないとなあって」
なまえは気恥ずかしそうに苦笑した。氷帝の授業は科目も多く、範囲も広いらしい。それになまえは特待生だから、成績は上位を保たないといけないらしいのだ。
「あ、そうだ。リョーマも一緒に勉強しない?」
「しない」
「えー! 青学も中間テストあるのに?」
「そうだけど、俺はなまえと違って上位狙わなくても良いし」
「うぅ……ちょっと羨ましい……」
良い事思いついたとでも言うように手を打ち合わせたかと思えば、リョーマの返答で唇を軽く尖らせ眉尻を下げている。残念そうにしているなまえに少しだけ罪悪感を抱いた。
「勉強はしないけどさ……最終日あたり、どっか出かけない?」
元々こうしてどこかに誘う予定で始めた会話だったのに、何故か挽回するような流れになってしまった。なのになまえは気にも止めず「行きたい」と瞳をきらきらと輝かせている。
「やったぁ! 私、それまで勉強頑張れるかも」
待ち合わせなどは後ほどやりとりして決めると言う事にして、二人は駅で解散した。いつもなら名残惜しそうに改札を潜るなまえが、今日は明るい表情で手を振っている。なまえってこんなにくるくる表情が変わる人だっけとリョーマは心の中で自問しながらも、そんな姿をリョーマがいない場所――具体的には氷帝で時間を過ごしている間も見せているのだろうかと思うと、少し胸がざわつくのだった。
*****
ゴールデンウィークの最終日に何がしたいかと言う話になった時、見たい映画があると提案してきたのはなまえの方だった。言われたタイトルは意外にもリョーマが気になっていたハリウッド物で、彼女は嬉々として「映画って本と違って映像だし、臨場感が伝わってくるような作品が好きなの」と電話越しに伝えてくれた。恋愛ものだったら起きていられる自信がないと思っていたリョーマは内心胸を撫で下ろす。
週末を合わせれば1週間以上あった休みも、部活や桃城との約束、プライベートの大会、果ては父親とのテニスをして過ごしていたらあっという間に過ぎてしまった。
そして今日はついに最終日――予定通りの時間に家を出られたリョーマは心の中でガッツポーズをしていた。以前一度だけしたデートでは寝坊して待ち合わせに遅れてしまったので、その挽回はできたと思う。
待ち合わせ場所はリョーマとなまえが住んでいるエリアから少し離れた繁華街の最寄り駅だ。改札を抜けると早速人々でごった返している。もうすぐ目印の広場に到着すると言う旨のメッセージを送ろうとポケットのスマホに手を伸ばした所で名前を呼ばれた。馴染みある声に反応すると、それはやっぱりなまえで、彼女も改札を抜けてこちらに向かう所だった。
「おはよう。今日は遅刻してこなかったね!」
揶揄うような彼女の笑みがリョーマの居心地を悪くする。
「俺だってたまには時間通りに起きるし」
へそを曲げてそっぽを向くと、なまえも追いかけるようにリョーマの顔を覗き込んだ。その顔には反省や焦りの色はなく、やけに楽しそうに笑っている。
「ごめんごめん。許してー?」
真剣に謝っていないのは明らかなのに、頬を緩ませて見上げてくるなまえの姿を見ていたらむくれていた気持ちがしぼむのを無視できない。腹を立てるのも馬鹿馬鹿しくなって、それでもすぐに機嫌を直すのも振り回されている気がして癪だった。ので、リョーマはわざとらしくため息をつく。
「あのさあ……なまえってほんっと」
「ほんと、何?」
リョーマを見上げたまま、なまえは首を傾げる。流石に少し不安になってきたのか、眉尻が僅かに下がっていた。可愛いよね、と言いかける自分に気がついて、誤魔化す為にリョーマはなまえを鼻をつまむ。なまえがあひるのおもちゃを潰したような短い悲鳴をあげた。色気の欠片もないその悲鳴がちょっと笑えた。
「なまいき」
ほら、映画始まるよ。と続けてから先に歩き出せば、なまえも同意してついてくる。隣に並んだ所で手を繋ぐと、彼女は恥ずかしそうに下を向いてしまったけれど、手は握り返してくれた。そうしてリョーマはようやく自分の調子を思い出せたのだった。
映画はリョーマの予想よりも出来が良いものだった。途中何度かなまえの横顔を盗み見たけれど、いずれも食い入るように画面を見つめていて楽しんでいるようだった。
同じビルの中にあるファーストフード店で昼食をとったあとでも、時刻は夕方と言うにはまだ早い。互いにどうしようかと考えている時に、ふとゲームセンターにある広告が目に入った。映画の半券を持っているとゲームが1回だけ無料になるらしい。ゲームの種類は問わないとの事だった。リョーマはその広告を指さしてなまえに示す。
「寄ってく?」
「でも、足大丈夫? 今日はもう結構歩いてるけど……」
「もうとっくに治ってる」
「じゃあ行きたい」
二人はゲームセンターに足を踏み入れ、どんなゲーム機があるのか見て回った。シューティングゲームでもして無料分を消費しようかとなんとなく考えていたリョーマだったけど、なまえが立ち止まったのは猫のぬいぐるみが取れるクレーンゲームだった。
「可愛い! 私、これにしようかな」
いくつか置かれているぬいぐるみはどれも品種が違っている。店員を呼んで半券を見せ1回分できるようにしてもらうと、なまえが狙ったのは出口の穴に一番近いヒマラヤンのぬいぐるみだった。クレーンを見つめる横顔は真剣な表情を浮かべている。しかし数秒もしない内になまえは残念そうに肩をすくめた。
「やっぱだめだった……」
リョーマはクレーンゲームの中を伺う。なまえの挑戦も虚しく猫は後ろ足だけが穴に引っかかっている状態だ。こういうのは桃先輩が得意なんだけど、とリョーマは腕を組む。確か、前に一緒にゲームセンターを訪れた時、桃城が何かコツのようなものを得意げに言っていた気がする。
リョーマは傍に待機していた店員に自身の半券を提示した。1回分だけ起動したクレーンゲームをよく観察し、ボタンに触れる。桃城の言っていた事はうろ覚えだけれど、確か……。
慎重に操作して猫の顎をひっかけるようにアームを入れ込む。いけ、いけ、と内心祈った甲斐あってか、アームが上がるのと同時に猫は自重で穴に落ちていった。
「え、うそ、すごい!」
なまえの賞賛を背中に受けながら、リョーマは猫のぬいぐるみを取り出した。しゃがんだ隙に安堵のため息をつく。自分が取れなかった事も忘れてはしゃぐなまえに、そのぬいぐるみを押し付けた。
「はい」
「え……?」
「あげる」
「……いいの?」
「その為に取った」
なまえはぬいぐるみを見つめ、抱きしめながらお礼を言った。リョーマは満足し、二人は再びゲームセンターを見て回る。そしてゾンビのシューティングゲームとお菓子のクレーンゲーム(今度は二人とも何も取れなかった)を遊んだ後、帰路に着いたのだった。
商業施設を出ると外はすでに夕暮れに差し掛かっていた。帰り道は被っていないので最寄りの駅に着いたらお別れだ。駅前は1日を終えて帰る人とこれから夜の街に繰り出す人とで賑わっている。ここからリョーマは地上の私鉄へ、なまえは地下鉄を利用する手筈だった。
「それじゃあ、バイバイ」
「あ、待って」
少し名残惜しくなってリョーマは思わずなまえを引き止める。どうしたの? なんて首を傾げて見上げる視線に、リョーマは明確な答えをあげられなかった。
「何か忘れ物?」
なまえが躊躇いもなくリョーマの名前を呼ぶ。少し前までは「越前くん」以外で呼ぶ事をあんなに恥ずかしがっていたのに、「名前で呼ばなかったら所構わずキスをする」という話をして、本当に実行していたら、あっという間になまえはリョーマ呼びをマスターしてしまった。そうしてタイミングを見失って、気が付けばしばらくキスをしていない。
久しぶりにしてやろうかな? 考えてみれば前だってしたい時にしてたし、デート帰りだなんてタイミングとしては何ら違和感ない。
……でも、やっぱりやめた。
リョーマは自身に呆れながらもなまえの手を離す。折角なまえが1日楽しそうにしていたのだから、また恥ずかしがらせて逃げる姿は見たくない。
「なんでもない。また明日」
「うん、また明日ね、リョーマ」
そうしてなまえは地下鉄の改札を潜っていった。エスカレーターがなまえの背中を連れて行くのを見届けてから、リョーマは改めて帰路につく。乗り合わせた時間帯が良かったのか、自宅へ到着するまでそう時間は掛からなかった。
自室に入りポケットの財布とスマホをベッドに放り投げると、リョーマの後ろに付いて部屋に入ってきたカルピンがその隣に腰を下ろした。カルピンのあごを撫でながらスマホを見やる。いつの間に通知が1件届いていた。なまえからのメッセージだ。
『今日は楽しかった! 猫ちゃんありがとう。大切にするね』
メッセージと一緒に写真も送信されていた。カルピンと同じヒマラヤンのぬいぐるみがベッドの上に寝そべっている。シーツはなまえが前に好きだと言っていた色で、このベッドになまえが毎日寝ているんだと気付いた瞬間、息ができなくなった。
また明日ねと手を振る笑顔が、『リョーマ』と動く唇が頭から離れない。
なまえがくるくる表情を変えるようになったと思うのは、多分、それだけ自分がなまえを見ているからだ。一緒に青学に通っていた頃はいつでも一緒にいられる事に安心して、なまえを好きだと言う気持ちだけを自覚していれば良かった。けれど離れてしまった今、有限になってしまったなまえとの時間が名残惜しい。昔よりもなまえを独り占めしたくなる。
……あー、やっぱ
「キスしとけば良かったな……」
リョーマはため息のように呟き、せめてもの慰めにカルピンのお腹に顔を埋めたのだった。