向かいのプラットホーム、6メートル。


 時間ギリギリまで目覚ましのスヌーズを止めて、朝ごはんもそこそこに急いで支度をするいつも通りの慌ただしい朝。玄関先の全身鏡で制服を確認して、いまいち上手くセットできなかった髪を撫で付けてから、鏡の中の自分と睨めっこする。そしてお父さんとお母さんが廊下に出て来ちゃう前に息を吸い込んで一思いに、

「リョーマリョーマリョーマリョーマリョーマ!」

と早口で捲し立てた。自分の顔をもう一回確認する。

 変な顔、してない!
 赤くなって……ない!

 うんうん、とひとりで頷いて、スマホで時刻を確認する。相変わらず時間ギリギリで、私は家の中に向かって「いってきまーす!」と声をかけてから急いで家を出たのだった。

 家から駅までは歩いて10分くらい。無人の改札を抜けてホームに立つと、しばらくしない内に反対側のホームに電車が滑り込んで、すぐに出発した。向こうのホームにはひとり、学ランの人物だけが残っている。その人――リョーマと目が合って、私は小さく手を振った。リョーマは眠そうに軽く手を上げながら連絡通路に続く階段を降りていく。
 リョーマを待つ間、私は鞄から手鏡を取り出した。髪型を整えながら心の中でリョーマの名前を反復して、ニヤけてないか確認する。〝越前くん〟じゃなくて、〝リョーマ〟と呼ぶようになってからしばらく経つのに本当はまだ全然慣れなくて、毎朝本人に会うまで練習しないと緊張してしまうのだ。鏡をしまってから連絡通路の方を眺めていると、ようやくリョーマの姿が見えてきた。人知れず深呼吸して、心の準備をする。リョーマが目の前に来た所で、私は気合を入れて笑顔になった。

「おはよう、リョーマ!」
「……はよ」

 リョーマはあくびを噛み殺しながら返事をしてくれる。まだ眠いからか、いつもより柔らかな雰囲気を纏っていた。そんな無防備な姿をあんまり長い時間見ていると肺の辺りが苦しくなって、意味もなく頬がゆるむ。折角変な顔をしないように練習したのだからと台無しになる前に何気ない風を装って前を向き、本当はどうでも良い昨日のテレビの話を始めた。努力の甲斐あってかリョーマは特に違和感を抱かずに「それ俺も見た」と相槌を打ってくれる。

 テレビの話から宿題の話題に移った所でこちら側のホームにも電車が到着して、私たちはそれに乗り込んだ。ピークよりも早い電車だから車内はまばらに空席があるくらい空いているけれど、出入口近くに邪魔にならないように並んで立つのが私たちの習慣だった。
 静かな車内に入ってしまうと、いつもなんとなく会話を止めてしまう。青春台までは3駅で着いてしまうから、私はこの名残惜しい時間をリョーマの姿を盗み見て過ごす事がほとんどだった。さっきまで自然に話せていた筈なのに、最近はリョーマの事を考えると『触りたいな』とか『くっつきたいな』って気持ちばかりが先行して、手を繋いでくれた事とか、キスしてくれた事を思い出しては頭がぼーっと何も考えられなくなる。でもいざリョーマが目の前にいると恥ずかしくて、隣にいるだけで精一杯だから、せめて気付かれないように端正な横顔や、テニスバッグを背負う広い肩、何気なく下げられた大きな左手を盗み見てしまうのだ。リョーマの手は私のよりも一回り大きくて、大きいだけじゃなく〝こんな風に〟少しゴツゴツしてて、中指と薬指の付け根にはマメの跡があって……――って、あれ?

 ふわふわと宙に浮かんでいた意識が戻ってくる。いつの間にか私は実際にリョーマの左手を握っていた。親指に硬くなったマメの跡が触れる。視線を感じて顔を上げると猫のような目を丸くしたリョーマと目が合った。

「今日は大胆だね」

 揶揄うように細められた瞳がくすぐったくて、耳が熱くなる。折角練習したのに、多分私今、首まで真っ赤になってる。

「なんか、さ、触りたく、なっちゃった」

 自分の蒔いた種とは言え突然の出来事に落ち着いてなんかいられず、こうなると私の口は勝手に喋り出す。ここまで正直に言わなくても良いのに、と自分の事ながら恨まずにはいられなかった。触りたかったなんてはしたない事、リョーマが引いてませんようにと祈りながら軽く謝って私は手を引離そうとした、けれど、リョーマが私の手を握ったから、引っ込められなかった。

「良いから、もっと触ってて」

 囁くような声はゾクゾクと背筋を通り抜け、私は恥ずかしさを覚えつつも頷く事しか出来ない。私を掴む手は緩く、リョーマの手のひらを撫でたり、指のひとつひとつをふにふにと握ったりするには十分なスペースがあった。その内にリョーマの指も私の手の甲を滑っていき、手首の方まで伸びてくる。リョーマの指が私のブレザーの袖に入ってくると、なんだかいけない事をしている気持ちになった。

『〝間もなく、青春台、青春台、お降りの際はお忘れ物なく――〟』

 不意に流れるアナウンスが現実に引き戻す。私は今度こそ手を引っ込めた。リョーマも今度は引き止める事はしなくて、何故だか首を思い切り曲げて遠くの案内板を確認しているようだった。
 やがて電車が止まり、扉が開く。リョーマは外に視線を向けてそのまま電車を降りた。

「じゃあまた、下校の時に」
「うん。またメッセージ送るね」

 恥ずかしくて下を向いたまま手を振る。けたたましい音と共に扉は閉じて、電車は出発した。
 残された私は、未だ手首に残る感触に浸っている。よく考えてみれば、ただ手を繋いでいただけ。それなのに、こんなに心が掻き乱されるなんて。
 二人きりになった時、ふとした瞬間にリョーマは手を繋いでくれる。その時も、今も、リョーマにはすごく余裕があって、なんだか私だけリョーマの事が好きすぎるみたい。

「私、ちゃんと彼女出来てるのかな……」

 本当はただのファンだったりして、なんて自信を失ってしまう私を他所に、電車は静かに氷帝の最寄駅に向かって行ったのだった。

*****

 そして今日も授業はつつがなく過ぎて行った。ゴールデンウィークが明け、中間テストも終わってようやく氷帝での生活に慣れてきた気がする。最近はクラスの子とも話せるようになって、もう転校生特有の腫れ物を扱うような空気もなくなってほっとしていた。
 授業が終わり机の中身をかばんに移し変えてから私は2つ隣の教室に向かった。扉から顔だけ覗かせて目当ての人物を探す。目的の人物と目が合うと、彼女はパッと花が咲いたように笑ってすぐに駆け寄ってきた。

「こんにちは、樺地さん」

 樺地さんとは初日にお兄さんのいる男テニに案内されてからずっと仲良くしてもらっている。すらりと背が高くて美人でどう見ても年上にしか見えないのに、これで同い年だと知った時はびっくりして大声を出してしまったくらいだ。彼女とはクラスが違うからいつも一緒に行動している訳ではないけれど、時間が合う時にランチをしたり、途中まで一緒に帰ったりしているのだ。

「今日は一緒に帰れそう?」

 そう聞くと、樺地さんは眉尻を下げて申し訳なさそうに目を伏せた。こんな顔を見たのは初めてで、何かあったのだろうかと思案する。彼女がまっすぐ帰らない時は大体、学園内の静かな場所で趣味のレース編みをしてから帰っているのだけれど、そういう時はこんな表情をしないから。

「何かあったの?」

 心配して聞いてみたら、樺地さんは少しの間考え込んでからぽつりぽつりと事情を説明してくれた。彼女は口数が少なくて、話す時はとても物静かに、穏やかに話す。幼い頃に本で読んだ深窓のお嬢様のような樺地さんの雰囲気が私は好きだった。
 そんな彼女曰く、今日はお兄さんの所属する男子テニス部に寄らなければいけないらしい。なんでもゴールデンウィーク中のしごきに耐えきれなくなった部員が大量に辞めた為、練習以外の細々としたものを手伝う予定との事。普段は部員で回す事ができるけれど、退部の処理があってどうしても数日は人手が足りない。そこで部員の妹である樺地さんが手伝いを申し出たとの事だった。

「お手伝いは樺地さん一人なの?」

 私の問いかけに彼女は控えめに頷く。ゆったりとした雰囲気の樺地さんが一人でボールを拾ったり重い物を持ったりする姿は想像できなくて、私は余計心配になった。

「迷惑じゃないなら、私にも手伝わせてくれないかな? 遅くまではいられないんだけど……」

 私も運動は苦手だけど、二人ならどうにかなるかもしれない。リョーマとの待ち合わせまでは毎回時間があるからちょうど良い。
 樺地さんは申し訳なさそうにしながらも、迷惑ではないし助かると言ってくれた。そうと決まれば話は早い。私は『友達のお兄さんの部活のお手伝いするからギリギリになるかも。いつもの時間に間に合うようには切り上げるね』とリョーマにメッセージを送ってから、樺地さんと一緒にテニスコートに向かったのだった。

―――― ……。

 氷帝の男子テニス部を訪れるのは2度目だったけれど、その衝撃は1度目以上のものだった。GWで大量の部員が抜けたと聞いていたのにそれでもまだ部員はたくさん居て、聞けば新入生の一部が耐えきれずに辞めていくのは毎年のことなんだとか。
 リョーマとの約束に間に合うように時間を気にしながらも、私は樺地さんと一緒にテニスコートを走り回った。次の練習で使う道具を予め出しておいたり部員の成績を記録したりと、体力を使うものから使わないものまで様々で、運動部に所属した事がない私には新鮮でリョーマも普段こんな事をしてるのだろうかと想像しながら過ごす時間は案外楽しかった。
 外での作業が一通り終わって部室で退部届の整理をしているところで、不意に部室の扉が開く。反射的に確認するとそれは1軍の先輩で、私は声をかけられた。

「長太郎が怪我しちまって、悪いんだけど救急箱持って来てくれねーか?」
「分かりました」
「頼んだぜ」

 先輩は練習の途中だったのか、返事をするなり部室から出て行ってしまった。もう少しで終わりそうな書類の束を樺地さんに任せて私は救急箱を持ってコートまで急ぐ。走るのは苦手だけど、遅れて練習の妨げになるのは嫌だった。
 たくさんいる部員の名前を覚えていなくて〝長太郎〟さんが誰かは分からなかったけれど、1軍のコートに着いたらさっきと同じ先輩が手招きしてくれたから助かった。怪我自体はひざを大きめに擦りむいたくらいで大した事がないらしく、本人が自分で消毒する傍ら私は救急箱を持ってそれを眺める。すると背後で名前を呼ばれて、振り向くと生徒会長の跡部先輩に見下ろされていた。
 跡部先輩は用事があって部活に遅れて来たのか、ジャージではなく制服の井出立ちだった。生徒会長と話す事なんて滅多にないし、少し緊張して思わず背筋が伸びる。

「お前、ここで何をやっている?」
「樺地さんの手伝いで……」
「樺地……妹の方か、なるほどな。2軍の記録は済んでるか?」
「さっき終わって、2軍リーダーの先輩に渡しました」
「1軍用のボールは?」
「コートに用意してあります」
「退部届の確認は?」
「今樺地さんが部室で処理してて、もうすぐ終わるはずです。不備なしの物は部室のミーティングデスクの上に、ありの物は明日の朝返却できるようにクラス毎に分けて職員室に提出する予定です」

 部員のみんなや樺地さんに教えてもらいながらなんとかこなした作業を聞かれるままに答える。すると跡部部長はニヤリと口角を上げた。

「お前、使えるじゃねーの。今週の土曜日、予定は?」
「特にないですけど……」

 反射的に答えると先輩は一層満足げな表情で、

「他校との練習試合に人手が足りない。付き合え」

と簡潔に言い放つ。有無を言わさないその物言いに、私もまた勢いで了承してしまったのだった。







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