世界一遠い、向かい合わせ。


 男テニのお手伝いをしてから数日が経った。結局最初の日から毎日お手伝いをして、そんな日々を過ごしている内にあっという間に週末になり今日は土曜日――他校との練習試合の日だ。
 前日教えられた通りの時間に登校するとテニスコートの近くには豪奢なバス用意されており、練習試合に参加する部員が既に集まり始めていた。人混みの中には跡部先輩もいて、隣には当たり前のように樺地さんのお兄さんが控えている。けれどどこを探しても樺地さん自身は見当たらなかった。

「おはようございます、跡部先輩、樺地先輩」
「来たか」
「あの、今日は樺地さんは?」
「アーン? 妹の方なら来ねえ。土曜は習い事が詰まってんだ。なぁ、樺地?」
「ウス」

 跡部先輩からもらった答えに少し寂しさと不安を感じながらも、だから私が呼ばれたのかとひとり納得する。そうこうしている内に跡部先輩からバインダーを渡され、これで出欠を確認するように指示された。跡部先輩の一声で部員の乗車が始まる。私はバスの出入り口に待機して乗り込む部員の名前に印をつけた。幸いにも今日は人数が少なくここ最近のお手伝いで名前を覚えた部員たちが大半だったので、つっかえずに確認する事ができた。芥川先輩以外の全部に印をつける事ができたところで、樺地さんのお兄さんが熟睡している人物を背負ってどこかから現れる。

「これで全員のはず……です」

 背中にいる人物が芥川先輩だという事を確認し、私はバスに乗り込んだ。最前列に座る跡部先輩に名簿を渡してから、車両中程の開いている席に座る。バスが発車した。
 それから私はしばらく窓の外を眺めていた。そういえば今日はどこの学校と試合をするのか聞いてないなとぼんやり思っていると、ふと顔の横にスナック菓子の箱を差し出される。袋の先を辿れば、持ち主は後ろの席に座る向日先輩だった。

「みょうじも食う?」
「ありがとうございます。頂きます」
「良いぜ、まあこれジローのポッキーだけどな」
「えぇ!?」

 びっくりして思わず芥川先輩の方を見る。芥川先輩は相変わらずシートに身体を預けて寝ていた。もう触っちゃったから返すのも衛生上良くないし……と困っていると、近くに座っていた宍戸先輩が背もたれから顔を覗かせる。

「おい岳人、後輩を共犯者にしてんじゃねーよ」

 咎めるような言葉の割に宍戸先輩は笑ってポッキーの箱に手を伸ばしていた。向日先輩がいたずらっ子のような顔で「ほら、早く食っちまわないと、ジローが起きるぞ」と促してくるので、私は心の中で芥川先輩に謝りながらも一気に食べてしまう。罪悪感が胸の中に広がったけれど、貰ったポッキーは期間限定の味なだけに美味しかった。もう一本勧められたけれど今度は遠慮して、逃げるように話題を変える。

「そう言えば今日ってどこと試合なんですか?」
「あれ、聞いてねーの? 青学とだぜ」
「青学!?」

 向日先輩の言葉に思わず大きな声を上げてしまった。周りの視線が集まるのを感じて私は慌てて口をつぐみ、小さくなる。けれど大きな声を咎められる事はなく、代わりに宍戸先輩が「青学がどうかしたのか?」と聞いてきた。

「私、中学は青学だったんです」
「マジか、じゃあ男テニにも知り合いいたりするのか?」
「知り合いというか……」

 私はどう答えたら良いか迷って口篭ってしまった。リョーマとの関係を知り合いで片付けるのは気が引けるし、だからと言って『彼氏がいるんです』なんて自慢してるみたいで恥ずかしい。
 そんな時、先頭に座る跡部先輩が立ち上がって後ろを振り向いた。

「おいお前ら静かにしろ、もうすぐ到着するぞ」

 跡部先輩の言葉に釣られて窓の外を見ると、いつの間にか見覚えのある風景が広がっている。向日先輩も宍戸先輩も慌てて自席に座り直し、私はまた一人になった。結局リョーマの事は言えないままだったけど、きっと先輩たちもそこまで興味があって聞いてきた訳じゃないだろうしと自分に言い聞かせる。
 ほどなくしてバスは『青春学園高等部』と書かれた校門を通過した。予期せずリョーマに会えると言う事実に、私はいつの間にか胸を膨らませていた。

*****

 バスから降りると、青学のレギュラージャージを着た眼鏡の人が既に待っていた。その人は氷帝のメンバーをよく知っているようで、跡部先輩に近付いて親しげに話し始める。

「やあ跡部。今日はわざわざありがとう」
「今年の部長は乾か」
「ああ、俺が部長で、不二が副部長をしているよ」
「似合わねーな」
「はは、そうかい?」

 跡部先輩の歯に衣着せぬ物言いも気にせず、乾さんは和やかに対応してからテニスコートに案内してくれた。私もバスに詰め込まれていた雑務の道具を持って(重い物は樺地さんのお兄さんが持ってくれたけど)最後尾を着いて行く。
 テニスコートに着くと青学の部員が各々にアップしている途中だった。ここにリョーマがいるんだと思うと、私の視線はどうしても白い帽子を探してしまう。端っこのコートでストレッチをしているリョーマを発見して、体温が少し上がった気がした。思えば、テニスをするリョーマを見るのは久しぶりだ。

「みんな集まってくれ、氷帝の皆さんが到着した」

 乾さんの一声でコートに散らばっていた部員が集まってくる。リョーマの視線が氷帝部員の姿を追って、私まで辿り着いた。嬉しくて思わず笑いかける。するとリョーマは口をあんぐり開けて、見た事ないくらい驚いていた。
 あれ、リョーマも氷帝と試合だって聞いてなかったのかな? 私が氷帝男テニのお手伝いをしている事は言ってあるから、今日氷帝が来るって知ってたらあんなに驚くはずがないもの。

 それから合同でのアップと練習試合が立て続けに始まり、私とリョーマは話す事もなく部活の時間が過ぎて行った。試合をする選手でもない限り他校の生徒と話す事なんてあまりないし、そもそも与えられた作業で忙しかったから。それにお手伝いの合間に見れたテニスをするリョーマの姿は相変わらずかっこよくて遠くからでもきらきら輝いていて、私も頑張らないとなっていつもよりお手伝いに精を入れることが出来たのも事実だ。

 そうして数時間が過ぎて、そろそろ氷帝陣が青学を去る時間が来る頃。バスに乗る前に校舎のトイレを使わせてもらってコートに戻る途中、誰もいない廊下で私はリョーマとばったり会ったのだった、

「お疲れ様……リョーマ」

 毎日の練習が功を奏してきたのか、ちょっと照れ臭かったけどなんとか普通にリョーマの名前を呼べた(気がする!)。今日はこうして話せる時間があるとは思ってなかったので予想外の幸運に心が弾んだ。

「ねえ、男テニにいるなんて俺聞いてないんだけど」

 けれどリョーマはなぜか眉を寄せて詰め寄ってきて。いきなりの行動や低いトーンの声に驚いたけれど、それ以上にリョーマの言っている事に私は戸惑った。

「言ったよぉ! 友達のお兄さんの部活の手伝いしてるって」
「それ。それしか聞いてない。テニス部とは聞いてない」
「あれ、そうだっけ……?」

 ここ数日の会話を思い出してみる。最初の日にメッセージを送ったあとは……。考えてみれば一緒にいる時、たまたま別で話したい事があったりリョーマの話を聞きたかったりで、そういえばお手伝いの内容はさらっとしか話してなかった気がする。はっきりと〝男子テニス部〟のお手伝いをしていると伝えたかと言われれば、確かに自信がなかった。

「えっと……それは、ごめんね?」

 だから部活始まる前のリョーマがあんな顔していたのか、と自分の中で合点がいく。びっくりさせちゃってごめんね、という意味で謝ると、リョーマは一層目を釣り上げた。明らかに怒っているリョーマを見るのは初めてで、少し怖い。

「本当に悪かったって思ってる?」
「お、思ってるよ」
「じゃあなんで詳しい話は隠してたんだよ。言う機会ならたくさんあったよね?」
「それはたまたま……!」
「しかもよりにもよって男テニって……ああ、そう言う事」

 畳み掛けるような言い合いの後、嘲るようにリョーマは冷ややかな笑みを浮かべた。何が言いたいのか分からなくて黙っていると、吐き捨てるかのように言葉が続けられる。

「最近、俺のテニス観に来ないなって思ってたんだよね。なまえって、テニスしてる奴なら誰でもいいんだ?」

 とんだ言いがかりに一瞬、頭が真っ白になった。何をどう言ったら伝わるのか全然分からなくて、頭の中に言葉が浮かんでは消え、いつもなら勝手に喋り出す口も金縛りのようにうまく動かない。大好きだったリョーマの猫のような瞳も鋭いナイフのように痛くて、全然知らない瞳に見えた。

「……どうしてそんな事言うの? 私ってそんなに信用できない?」
「否定しないんだ」

 リョーマの考えている事がひとつも理解できなくて、言いようのない怒りで身体が震える。何かを言おうとすればするほど言葉にならず、代わりに溢れるのは涙だった。

「リョーマのばか。もう知らない」

 私はリョーマの反応を待たずに踵を返し、走ってその場から逃げ出した。

 泣いているところを誰にも見られたくなくてなるべく遠回りになるようにコートに向かっていると、グラウンドの隅に手洗い場を見つける。顔を洗いながら泣くな、泣くな、と自分に言い聞かせたけれど、涙は止まってくれなかった。

 しばらく経ってなんとか落ち着いてからコートに戻ると氷帝部員は既にバスに荷物を積み始めていた。慌てて合流し、忘れ物がないか確認してバスに乗り込む。
 それから青学の校門を出るまでリョーマの姿を見る事はなかった。







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