明確なプラ桜表現があります。苦手な方はご注意ください。


走って縮める、50メートル。


 朝
 もう何度鳴ったか分からないスヌーズ音を止め、起きる事を拒否して布団を被り直す。5分もしない内にパタパタを階段を上がる音が聞こえ、自室の扉がノックされた。扉越しに聞いたお母さんの声から急かすような空気を感じる。

「なまえいつまで寝てるの、もう出る時間でしょ!」
「…………今日は遅くても大丈夫な日なのー」

 寝起きの耳にはちょっときついくらいの声量に思わず顔を顰め、私は不機嫌に返答した。お母さんは半分納得してないような声色で何かを言ってからキッチンに戻っていく。本当はもう少しゴロゴロしているつもりだったけれど、嵐のような喧騒ですっかり目が冴えてしまった私は観念して起き上がる事にした。
 スマホの画面を確認する。いつもならとっくに家を出ている時間だ。……青学の朝練も、とっくに始まってると思う。待ち合わせの駅で待ちぼうけを食うリョーマを一瞬想像して、心臓がぎゅっと苦しくなった。そしてすぐにハッと我に返り、別に良いんだもん!と頭を振って自分に言い聞かせる。今から準備して家を出ても、1時間目には充分間に合うのだ。
 気を取り直してスマホのスヌーズ機能を停止するとロック画面が現れた。通知は1件もない。メッセージアプリを開いてもリョーマとの会話は金曜から変わらない。

『なまえって、テニスしてるやつだったら誰でも良いんだ?』

 リョーマの冷ややかな目が脳裏によぎって、今度はあの時の怒りを思い出して眉間に力が入る。私は悲しんでいるし、怒ってもいるのだ。だってあんな事、私の言い分も聞かずに言うだなんて。

「……リョーマのばか」

 だから朝の待ち合わせには行かなかった。放課後だって、行くつもりもない。

*****

 その日は、気が付いたら放課後になっていた。一日中上の空だった事に反省しつつ帰り支度をして、校舎を出て校門とは反対の方向へ向かう。いつもならこのまま2つ隣の教室に行き、樺地さんと途中まで一緒に下校できるか確認するのだけれど、今日は図書室に寄るから別行動をしようとお昼休みの内に彼女に予定を告げてあるのだ。……まっすぐ帰りたくなかったから。

 氷帝は図書室も規格外で、立派な西洋風の建物まるごとひとつが図書施設だった。幼稚舎から大学部までの蔵書があって年齢問わず全ての本が利用できるから、区の図書館と比べても謙遜ないほど充実している。普段は昼休みや朝の時間を利用して本を借りに来るのだけれど、放課後に訪れるのは実は初めて。

 明日の朝借りる予定だった本の貸し出し手続きを済ませ、朝よりも混んでる自習スペースで空いている席を見つける。テストも終わった事だし久しぶりに勉強以外の本が読みたかった。なのに……視線は楽しみにしていた筈のその物語の上を滑っていくばかりで、頭の中に全然入って来ない。油断すると身体が勝手にスマホを取り出して、時間ばかりを意識している。今頃青学は部活の途中かな?……今から行けば、部活が終わる時間に充分間に合うけど。…………は! だめだめ! 今日は行かないって決めたんだから!

 無意識の考えを掻き消すように頭を振って、スマホを制服のポケットにしまう。ポケットの中のスマホが震えたのは、そんな時だった。咄嗟に取り出して画面を確認する。もしかして、と思ったのも束の間、それは桜乃ちゃんからのメッセージだった。

『今日もあのバス停で会えるかな? お裾分けしたい物があるの』

 最後に添えられた笑顔の絵文字と桜乃ちゃん本人の微笑みが重なる。反射的に『ごめん』とメッセージを打って、少しだけ迷ってから、私はその3文字を消して改めて文章を作った。行けない理由を説明するのも、説明して心配されるもの嫌だけど、だからと言って嘘をついたり誤魔化したりなんてできない。

『ありがとう! いつも通りの時間に行くね』

 送信ボタンを押したら、肺の中が空っぽになるくらいの大きなため息が出た。よし、と気合いを入れて、本をかばんにしまう。
 桜乃ちゃんに会いに行くの。リョーマの為じゃない。桜乃ちゃんに会ったらすぐ帰ってやるんだ。と、誰にともなく言い訳しながら校門に向かうけれど、足取りは決して軽くはなかった。

*****

 そしてまた気が付いたら青春台の改札を抜けていた。今日の自分は意識がどこかに行ってしまっているみたい、と我ながら情けない。
 バス停に着くと桜乃ちゃんは既に待ってくれていて、軽く挨拶してから二人してバス停の簡易的な椅子に並んで座った。このバス停には毎日来ているけれど、桜乃ちゃんと会うのは毎日というわけではない。女テニが早く終われば桜乃ちゃんが先に来るし、男テニが早く終わった時はリョーマが先に来るからだ。だから今日はリョーマと鉢合わせする前に桜乃ちゃんに会えて、私は内心ほっとしていた。

「ごめんね、呼びつけちゃって」
「ううん、ここにはいつも来てるから」

 心配させたくなくていつも通り振る舞う。気持ちと言葉のちぐはぐさに心が軋んだ。
 桜乃ちゃんがくれた物は見た事のないブランドの焼き菓子と押し花のポストカードだった。小さめでも立派に連なる紫の花序はそれが藤の花である事を示している。どうしたのかと尋ねたら、フランスにいるペンフレンドが送ってくれた物だと説明してくれた。

「そんな珍しい物、貰っちゃって大丈夫なの!?」
「もちろん! リョーマくんの彼女さんと仲良くなったんだよって話したらくれたの」
「その人、リョーマの事知ってるの?」
「うん。リョーマくんと対戦した人なの」

 私の問いかけに桜乃ちゃんは頷いてペンフレンドさんの事を話してくれた。中1の時のテニスワールドカップフランス代表の男の子で、名前はプランスさんと言うらしい。出会ってからもう2年半も文通を続けていて、夏休みや春休みになると日本に遊びに来てくれるんだとか。

「いつもね、手紙と一緒に押し花を送ってくれるの。それで藤の花言葉は友情と歓迎だからって、今回は私となまえちゃんの2人分。だからこれはなまえちゃんへのプレゼントだよ」

 プランスさんの話をしている桜乃ちゃんは少し恥ずかしそうにはにかみながら穏やかに遠くを見つめていて、恋をしているんだなって事が一目で分かった。いじらしい姿に私まで優しい気持ちが芽生える。

「……プランスさんの事、大好きなんだね」
「え、えぇええ!? あ、あの、えっと、ど、どうして、分かったの?」

 桜乃ちゃんは酷く慌てて顔を真っ赤にした。隠しながら話してるなんて予想してなくて、私は思わず「様子を見てたらすぐ分かったよ」と笑い出してしまう。すると真っ赤だった桜乃ちゃんは余計に顔を赤くして顔を手で覆った。余計に可愛らしくて、私はいけないと思いながらもちょっとからかいたくなってくる。

「桜乃ちゃんは私とリョーマが付き合ってる事、前から知ってたでしょ? それで今日ようやく桜乃ちゃんの彼氏さんの事が聞けたんだから、これでおあいこだね」

 すると桜乃ちゃんは途端に顔を曇らせてしまった。言ってはいけない事を言ってしまったのかと困惑しつつも思考を巡らせる。

「えっと、お付き合いじゃなくて、片思いなの?」
「……実は、分からないの」

 眉尻を下げて困ったように笑う桜乃ちゃんに、話したくなかったら話さなくても良いと咄嗟に言い募った。けれど桜乃ちゃんは首を振って、ぽつりぽつりと話し始める。
 プランスさんとは手紙だけじゃなくスマホでもやりとりしてるし、日本に来た時は必ず2人きりで会って、1回だけキスもしたらしい。プランスさんは何かにつけて「好きだ」と言ってくれるけれど、ちゃんと「付き合おう」っていう告白はされてないとの事だった。

「私は付き合ってるって思いたいんだけど、フランスではキスや愛情表現も挨拶だって言うから……」
「……そんな関係で、しかもフランスと日本で離れてて、不安にならない?」

 桜乃ちゃんの不安と自分の不安を重ねて、私は思わず尋ねてしまった。私も、告白して付き合ってるっていう確認もしたけれど、未だにちゃんとリョーマの彼女ができているのか毎日不安が拭えていないから。
 すると桜乃ちゃんは苦笑しながらも「正直言うと、なる」と頷いた。けれどその後すぐに息を呑むほど強い光を瞳に携えて、彼女は続ける。

「でもプランスくんが好きって言ってくれる限り、プランスくんに選ばれるような私でいる努力をしていたいから」

 その言葉に、ハッとさせられた。好きな人の好きな人でいる努力が、桜乃ちゃんをこんなに強くしてるんだ。……それに比べて私は、リョーマに信用してもらえるように努力した事、あったのかな。
 恥ずかしいを言い訳にして、逃げて、どれだけリョーマの事好きか伝える努力、してない気がする。こんなんじゃ、リョーマに信用してもらえなくて当然だ。
 とても大切な事を気が付かせてくれた感謝で胸がいっぱいになって、我にもなく桜乃ちゃんの両手を握った。

「話してくれてありがとう、桜乃ちゃん」

 改まった私の態度に桜乃ちゃんは「どういたしまして?」と首を傾げる。不思議そうにする彼女に向かってリョーマと喧嘩した事を告白しようと口を開きかけたところで、桜乃ちゃんは私の後ろを見て笑顔を浮かべた。

「あ、リョーマくんだ!」

 つられて振り返ると、そこにはどこか気まずそうにしながらこちらへ向かって歩くリョーマの姿が見えた。

「なまえちゃん、行って?」
「でも……」
「良いの。私のバスももう来る頃だから」

 そこまで言うのなら、と私は桜乃ちゃんの言葉に甘えて立ち上がる。またね、と挨拶をして、リョーマのいる方角へ恐る恐る歩いた。土曜日の険悪な雰囲気を思い出して足がすくみそうになるけど、桜乃ちゃんみたいに強くなりたくて、不安を掻き消すようにリョーマの元へ走り出す。リョーマがわずかに目を見開き、小走りになるのが見えた。ぶつかりそうになるくらい近付いた所で私は勢いに任せて頭を下げる。

「「ごめん!」」

 声が重なった事にびっくりして思わず顔を上げる。すると同じように驚いた顔のリョーマがこちらを見つめていた。

「なんでなまえが謝るの?」
「今朝待ち合わせに行かなかったし、あと、いろいろ」
「俺も今朝の待ち合わせには行けてないし、酷い事も言った。色々ごめん」

 ごめん、って、たった3文字。こんなにも簡単な言葉で重い空気が解ける。私はまた肺が空っぽになるくらい大きなため息をついた。今度は安堵のため息だった。
 それからの私たちに会話はなくて、でもリョーマはしっかりと手を繋いでくれて。青春台へ向かう足取りがこんなに軽くなるだなんて、来た時は思ってもいなかった。







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