鼻がくっつきそうな位置、10センチ。
「家まで送る」
リョーマがそう提案してくれたのは、青春台の駅に到着する直前の事。
「……うん、お願いします」
いつもは遠慮してしまう私だけれど、もっと一緒にいたくて、今日は素直に頷いた。リョーマは「出た、謎敬語」なんて言いながらおかしそうに口角を上げていて、そんななんでもない事にもほっとしてしまう自分がいる。
青春台から私の最寄り駅までは3駅。駅から家まで歩いて10分くらい。合わせて20分はあった筈なのに、いつもよりあっという間で、まだ一緒にいたいという気持ちだけ残したまま家に到着してしまった。
「じゃ、また明日」
繋がれていたリョーマの手がゆっくりと離れていく。
「待って!」
気が付くと私はその手を握り返して引き留めていた。リョーマはぱちくりと瞬きをして、未だ繋がれた手を眺めている。
「なに?」
「えっと、お母さん最近パート始めて、だから、今うちに誰もいなくて、その、良かったら、時間が平気なら、なんだけど……上がっていかない?」
口が動くまま、しどろもどろになりながらも「今日全然話せなかったから」と最後に付け加える。リョーマは一瞬間を置いた後、なんだかやけに神妙な表情で頷いた。断られなかった事にほっとしつつ玄関の鍵を開ける。近所の人が通らない内にと考えていると、妙に焦って鍵が上手く回らなかった。玄関を開けると当然ながら家の中は真っ暗で、本当に誰もいないという事実を押し付けてきて更に緊張した。
先にリョーマを自室まで案内し、キッチンに戻ってお茶とお菓子を用意する。部屋に戻るとリョーマはすでにベッド脇に座っていた。私も隣に腰掛ける。
「麦茶で大丈夫だった?」
「ん、サンキュ」
「「………………」」
会話は続かなかった。いつもは雑音で溢れる外で会っている分、部屋が異常に静かに感じる。時計の秒針の音だけが聞こえて、数が重なる度に焦りは募った。私から話したいって誘った訳だから何か話さないと。
桜乃ちゃんとの会話を思い出す。私もあんな風に強くなりたい。リョーマがどれだけ好きかって信用してもらえるように、伝えるなら、今だ。
「「あの、」」
するとまさかのタイミングでリョーマと声が重なった。慌てて話題を譲ったらリョーマは「大した話じゃなかったから、なまえから言って」と首を振る。ここでまた遠慮したら『お先にどうぞ』のラリーが始まっちゃうのかな、それとも呆れられちゃうのかな、なんて咄嗟に考えてたらなんだか笑えて、ついさっきまで抱いていた緊張が少しだけほぐれた気がした。
「じゃあ、私から話すね。……あのね、テニスしてる人なら誰でも良いんだってリョーマに言われた時」
「いや、だから、それは本当ごめんって」
リョーマは顔に手を当て項垂れる。私は慌てて首を振った。
「違うの! 責めてる訳じゃなくて……私あの時ちゃんと否定できなかったから、今させて欲しくて」
ようやくリョーマが顔を上げたので私は安堵の息をついた。ちゃんと気持ちを伝えなくちゃと思えば思うほどとどんな言葉を使えば良いのか迷ってしまって、形の整えられていない言葉が心に浮かんだ傍から口をついて出て行く。
「テニスが楽しいって知ったのも、リョーマが居たから。リョーマが好きだから、テニスが好きなの。誰でも良い訳じゃない、リョーマが良い。リョーマに信用してもらえる彼女でいたい……別れたく、ないです」
リョーマの名前も、好きって単語も、言うのが恥ずかしいなんて言える余裕がないくらい自分の気持ちを伝える事でいっぱいいっぱいだった。読書が趣味なんて言ったら笑われるほどのしどろもどろで支離滅裂な話をリョーマは黙ったまま、けれど困惑しているように眉根を寄せて聞いていた。
「え、別れないよ。なんでそんな話になるの?」
「本当に? 嫌いになってない?」
「なってない。別れるわけない」
「良かったぁ……!」
すっかり安心して気が抜けた瞬間、我慢する間もなく涙は溢れた。喧嘩している間、怒っていたのは本当だ。けれどその感情の裏でこれがきっかけで別れ話になったらどうしようと言う不安がちらついて離れなかったのも事実なのだ。
泣いている私を前にリョーマは当惑しながらも目元を拭ってくれる。彼の手を濡らしてしまった事に謝りつつ、それでも涙が止まらなかった。するとリョーマはぎこちなく両腕を広げる。
「……来る?」
リョーマの目線が明後日の方向とこちらで行ったり来たりしている。
「でもっ、涙の跡、付いちゃう……っ」
「良いから。気にしない」
その返事に、私は考えるよりも先に身を寄せていた。リョーマは片方の腕で私の身体を支え、もう片方で抱えるようにして頭を撫でてくれる。頬に押し付けられた胸板は、想像よりもずっと平たくて硬かった。おままごとのようなハグは何度かあったけど、こんな風に身体を預けるのは初めてだ。
身体ごと全部包まれる感覚はどんな感情よりも安心感が勝って、しばらくすると落ち着いて涙も止まった。それを悟ったのか、黙って頭を撫でてくれていたリョーマが口を開く。
「俺、最近なまえが氷帝で何してるのかって考える事多くて、そしたら目の前で他の男の世話してるから、嫉妬した。それで感情に任せて嫌な事言って……本当にごめん。あんなの本心じゃない。なまえの事、信用してない訳でもない」
初めて聞くリョーマの感情は私を驚かせるには十分だった。だって、リョーマはいつだって余裕があって、私ばっかり不安でいっぱいいっぱいでって、そう思ってたのに。
「リョーマも嫉妬するの?」
「するに決まってる。好きな子が他の男と仲良くしてんだから」
嬉しさにまた泣いてしまいそうになる自分を抑える為に目を閉じる。不安なのも、誰かに嫉妬しちゃうのも、私だけじゃなかった。心臓が愛おしさでぎゅうっと苦しくなって、助けを求めるようにリョーマの胸元に更に顔を埋める。微かにリョーマの心音が聞こえる事に気がついて耳を傾けると、私の心臓と同じぐらい早鐘を打っていた。リョーマもドキドキしてるんだ。……私と同じように。
「……あのね」
「ん?」
「私、毎朝〝リョーマ〟って、名前で呼ぶ練習してるの。そうじゃないと未だに緊張しちゃうくらい、リョーマの事大好き」
好きって気持ちが抱えきれずに溢れて、耐え切れずに秘密を打ち明けていた。ただリョーマが好きって、それだけで無敵にすらなれた気がした。
「何それ」と笑うリョーマの声は掠れるほどに小さく、彼が呼吸をする度に息が私の耳をくすぐっていく。回数を重ねる度にくすぐったさが増して、なんだか変な気持ちになってきちゃって、それがひどく間違っているような気がして身じろぎをした。そろそろ離して欲しくてやんわり押すけれど、リョーマは腕の力を弱めない。
「あのー」
「なに?」
「そろそろ離してほしいなーなんて」
「離さない」
「え」
「大好きなんでしょ、俺のこと。ならもう少しこのままで良いじゃん」
「す、」
そんな押し問答をしている内に思考はだんだん現実味を帯びてきて、今までの会話を思い出して顔が熱くなる。さっきまでの無敵状態が嘘だったかのように、いつもの私に戻るのはあっという間だった。
「好、き、だけど、今ってそういう話?」
「そう言う話。大好きじゃなきゃ俺が困る」
「でも、顔拭きたいし、一瞬だけ。ね?」
強めに身体を捻りなんとか逃げる。机の上にあるティッシュ箱までは這って行ってもすぐのはず、だったんだけど。
「あ、逃げんな」
何故だか少し楽しそうなリョーマの声を聞いたと同時に捕まえられて、何がどうなったかわからない内に床に組み敷かれていた。遊んでいた様子から一転、まっすぐこちらを見下ろすリョーマの視線がとろんと熱を帯びる。
本当はこんな涙でぐちゃぐちゃな自分の顔、1秒だって見られたくない筈なのに。
(キスしてくれたら良いのに)
頭に浮かぶのはそんな事ばかり。
キスして欲しい自分とそんな恥ずかしいお願いできないって拒否する自分が心の中で喧嘩して、身体が2つに張り裂けそうだった。相対するふたつの感情の境目で、さっきまでの無敵の私が中途半端に顔を出す。頭に浮かんだのは、ずるいおねだりだった。
〝「これから越前くんって呼ばれる度にキスするから。どっちが恥ずかしいかはなまえが考えて」〟
そんな宣言をされた時は、まさかこんな形で利用するなんて考えもしなかったけれど。
「……越前くん」
どうか伝わりますように祈りながらリョーマを見上げ、目を閉じる。
リョーマの息を呑む声が聞こえて、手のひらの暖かさを頬に感じた。